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春澄朝臣善縄 (はるずみのあそんよしただ)

延暦十六年生まれ。字は名達。藤原良房政権のブレーンとして知られる。「在朝之通儒」と評された。

伊勢国員弁郡の地方豪族、猪名部造氏に出自を持つが、父の豊雄の代には京貫していたらしい。父の極官は周防大目。祖父の財麿は伊勢国員弁郡の少領だった。
幼少より並々ならぬ素質を示したため、祖父は傾産して養育にあたったという。
大学寮に修学し、天長初年ころに奉試に合格、文章生となる。のち俊士に選抜された。
天長四年、常陸少目に任じられる。その月俸を研究費に充て研鑽を積んだ。
天長五年、兄弟姉妹五人とともに春澄宿祢の姓を賜る。同年、俊士の号を停め、文章得業生となる。
天長七年、難関の対策を丙第で及第。同年六月、少内記に任じられる。
天長八年三月、大内記に任じられ播磨少掾を兼ねる。
天長九年正月七日、従五位下に叙せられる。
天長十年三月十三日、前月三十日に立太子した恒貞親王の東宮学士に、小野篁とともに任じられる。『恒貞親王伝』に「親王昔者受史伝於春澄善縄」とあるように、史書の講釈などを行った。大内記のまま兼任。
承和元年正月十二日、東宮学士・大内記のまま摂津権介を兼ねる。
承和三年七月、東宮学士のまま但馬介に任じられる。
承和九年正月七日、従五位上に叙せられる。
同年七月二十三日、承和の変により恒貞親王廃太子。
同年七月二十六日、周防権守に任じられる。薨伝には左遷という。
承和十年二月十日、文章博士に任じられる。
同年、大学において後漢書を講じる。
承和十一年八月五日、嵯峨上皇の遺詔に関する諮問を藤原良房から受ける。善縄らの返答により、卜筮や物恠が重視され、上皇の遺詔が破棄される。
承和十三年正月十三日、文章博士のまま備中介を兼ねる。
承和十四年五月十一日、仁明天皇への荘子進講が終了。殿上に善縄を招き杯を賜り束脩の礼を行った上、御衣二襲を賜る。
承和十四年五月二十七日、漢書の進講を始める。
承和十五年正月七日、正五位下に叙せられる。
承和十五年二月十四日、文章博士のまま備中守に任じられる。
嘉祥三年四月十七日、従四位下に叙せられる。
嘉祥四年四月一日、出居侍従に任じられる。
同年四月二十五日、文選を進講。
仁寿二年正月十五日、但馬守に任じられる。
仁寿三年十月十一日、朝臣の姓を賜る。このときも但馬守。
斉衡元年九月二十三日、但馬守のまま刑部大輔を兼ねる。
斉衡元年十月二十日、重陽の詩評のため召される。
斉衡二年二月十七日、続日本後紀撰修の詔を受ける。
斉衡三年十一月三日、文徳天皇に晋書を進講。
天安元年正月十四日、伊予守に任じられる。
天安二年正月七日、従四位上に叙せられる。
天安二年四月十四日、諸大神社に遣わされる勅使の一人となる。
貞観二年正月十六日、参議に任じられる。このときも伊予守。
貞観三年正月十三日、式部大輔に任じられる。
貞観四年正月七日、正四位下に叙せられる。このときも参議・式部大輔。
貞観五年二月十日、参議・式部大輔のまま播磨権守を兼ねる。
貞観六年正月十六日、参議・式部大輔のまま近江守を兼ねる。
貞観十一年八月十四日、続日本後紀が撰上。翌年に薨じる善縄が完成を急いだためこの時期か。
貞観十二年正月二十五日、参議・式部大輔のまま讃岐守を兼ねる。
同年二月七日、従三位に叙せられる。藤原良房からは見舞いとして衣服が届けられた。
同年二月十九日、薨じる。七十四歳。学閥間の争いを嫌い、弟子を持たなかったという。
(続後紀、文徳実録、公卿補任、扶桑略記)

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春世宿禰嶋公 (はるよのすくねしまぎみ)

和泉国日根郡の人。
承和十二年二月二日、子の嶋人・嶋長らとともに、榎井朝臣の姓を賜り、右京二条一坊に改貫した。ときに正六位上。(続後紀)

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彦湯支命 (ひこゆきのみこと)

饒速日命の孫。
日子湯支、比古由支ともいう。志貴連の祖とあり(大和神別)、日下部の祖ともある(河内神別)。(『録』)
『旧』天孫本紀に、またの名を木開足尼とあり、綏靖天皇の時代、はじめ足尼(すくね)となり、次に食国の政申す大夫となって、大神を斎き奉ったとある。日下部馬津久流久美の娘・阿野姫を娶り一男を生み、出雲色多利姫を娶って一男を生み、淡海川枯姫を娶って一男を生んだという。
天皇本紀にも綏靖三年正月に食国の政申す大夫に任じられたことがみえる。

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氷宿禰継麻呂 (ひのすくねつぐまろ)

承和十二年正月七日、正六位上から外従五位下に叙せられる。
承和十五年正月十三日、駿河介に任じられる。このときも外従五位下。(続後紀)

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氷連老人 (ひのむらじおきな)

真玉の子。老とも。
白雉四年五月十二日、遣唐大使吉士長丹らについて、留学生のひとりとして入唐。
同五年二月条に、伊吉博徳の言として、この年帰国したとある。
持統四年十月二十二日条に、斉明七年の百済救援の戦役の際、土師連富杼・筑紫君薩夜麻・弓削連元宝児・大伴部博麻とともに唐の捕虜となった。唐人の計画を知り奏上しようとしたが、脱出するための衣食もないため大伴部博麻が身を売って、老人らを帰国させたという。(紀)

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広澄宿禰福麻呂 (ひろずみのすくねふくまろ)

大和国の人。もと物部福麻呂という。
弘仁四年正月二十四日、広澄宿禰の姓を賜る。ときに従六位下。
弘仁六年正月七日、正六位上から外従五位下に叙せられる。同年八月十日、造西寺次官。(日本後紀)

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笛吹部高継 (ふえふきべのたかつぐ)

尾張国の人。
貞観二年五月二十三日、本姓の物部屋形に復する。ときに従六位上。(三代実録)

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経津主神 (ふつぬしのかみ)

神代紀に、高皇産霊尊が瓊瓊杵尊を立てて葦原中国の主としようとした時、天穂日命、天稚彦に続いて遣わされたことがみえる。磐裂根裂神の孫で、磐筒男・磐筒女の子。
使者を選ぶ際、諸神が皆推挙したため、武甕槌神を配えて出雲国五十田狭の小汀に天降ることになったという。
大己貴神を前に、十握剣を抜いて逆さまに地に立て、その剣先に座して国譲りを迫った。また、広矛を天孫へ献上する仲介をした。

「紀」第一の一書は、遣わした神を天照大神とする。
「紀」第二の一書は、天降る前に天津甕星またの名を天香香背男を誅し、国譲りの後は大己貴神から推挙された岐神の助けを得て、葦原中国の平定にあたったという。

出雲国造神賀詞には、天穂比命の子の天夷鳥命とともに天降り、荒ぶる神を揆い平らげ大穴持命を媚び鎮めて、大八島国の現事・顕事を事よさしめたとある。
出雲国風土記は、意宇郡楯縫郷条に布都怒志命が天石楯を縫い置いたことが楯縫の、同山国郷条に国を廻った時、この土は止まなくに見まく欲しと言ったことが山国の、それぞれ地名起源になったとする。
「記」の出雲国譲神話には、この神の記載は無い。
古語拾遺および「旧」(陰陽本紀)に、下総国香取に祀られる神という。
石上神宮に物部氏によって奉斎される、布都御魂神を人格神化したものか。

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布都姫夫人 (ふつひめのおおとじ)

天孫本紀に、宇摩志麻治命の十四世孫で、物部大市御狩連の妹。別名を御井夫人、石上夫人とされる。
崇峻天皇の夫人となり、同朝の政事に参与して石上神宮を奉斎したという。
また、異母弟の物部石上贄古連の妻となり、四児を生したという。鎌束連、長兄若子連、大吉若子連、鎌姫大刀自連がこれにあたるか。(旧)

「紀氏家牒」は蘇我蝦夷宿禰の母について、「母物部守屋大連之妹名云太媛也。守屋大連家亡之後、太媛為石上神宮斎神之頭」とする。
太媛は布都姫の都をツではなくトと誤読したことによる表記と考えられ、同じく物部守屋大連の妹である布都姫と同一の伝承をもとにしたものと見られる。
崇峻即位前紀にも、蘇我馬子大臣の妻は物部守屋大連の妹で、大臣は妄りに妻の計を用いて大連を殺したとされるが、旧事本紀では馬子に嫁したのは守屋の姪の鎌姫大刀自連とされ齟齬がある。旧事本紀のほうが誤りであろう。

物部大市御狩連物部贄子連物部鎌姫大刀自連公

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太姫 (ふとひめ)

天孫本紀に、物部布都久留連の妻として見える。依羅連柴垣の娘。
布都久留連との間に一児を生したという。物部木蓮子連、小事連、多波連のいずれかか。(旧)

物部布都久留連

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船瀬足尼 (ふなせのすくね)

国造本紀に、伊香色雄命の三世孫で、成務朝に久自国造に任じられたことがみえる。(旧)

伊香色雄命

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穂積朝臣老人 (ほづみのあそんおきな)

天平九年八月二十八日、正六位上から外従五位下に叙せられる。
天平九年十二月二十三日、左京亮に任ぜられる。
天平十八年四月二十二日、従五位下に叙せられる。
天平十八年九月十九日、内蔵頭となる。このときも従五位下。(続紀)

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穂積朝臣老 (ほづみのあそんおゆ)

大宝三年正月二日、山陽道巡察使に任ぜられる。ときに正八位下。
和銅二年正月九日、従六位下から従五位下に叙せられる。
和銅三年正月朔、朝賀に左副将軍として、皇城門外の朱雀大路において騎兵を率い、威儀に備わった。
和銅六年四月二十三日、従五位上。
養老元年正月四日、正五位下。
養老元年三月三日、石上朝臣麻呂の喪に、五位以上の官人の誄を行った。ときに式部少輔。
養老二年正月五日、正五位上。
養老二年九月十九日、式部大輔。
養老六年正月二十日、乗輿を指斥(天皇を名指しで批判)した罪に坐し、斬刑に処せられることになったが、首皇太子の助言により死一等を減じて佐渡島に配流された。
天平十二年六月十五日、恩赦により入京。
天平十六年二月二日、難波宮行幸のとき恭仁留守司となった。ときに大蔵大輔、正五位上。(続紀)

年月不詳、近江志賀行幸のとき、「穂積朝臣老が歌一首」があり(万葉集巻三)、
また、近江の志賀唐崎にいたり詠んだ歌二首の左注に、「ただし、この短歌は或書には、穂積朝臣老が佐渡に配さえし時に作る歌、といふ」とみえる(万葉集巻十三)。

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穂積朝臣小東人 (ほづみのあそんこあずまんど)

天平宝字二年八月朔、正六位下から従五位下に叙せられる。
天平宝字三年五月十七日、周防守。
天平宝字八年正月二十一日、木工助。
天平神護元年正月七日、従五位上。(続紀)

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穂積朝臣多理 (ほづみのあそんたり)

天平十九年正月二十日、無位から従五位下に叙せられる。(続紀)

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穂積朝臣虫麻呂 (ほづみのあそんむしまろ)

朱鳥元年正月、新羅使金智祥を饗するため筑紫に遣わされた。ときに直広肆。
朱鳥元年九月二十九日、天武天皇の殯庭に諸国司の事を誄した。(紀)

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穂積朝臣山守 (ほづみのあそんやまもり)

持統三年二月二十六日、判事に任じられる。ときに務大肆。(紀)
慶雲元年正月七日、正六位上から従五位下に叙せられる。
和銅五年正月十九日、従五位上から正五位下に叙せられる。(続紀)

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穂積臣磐弓 (ほづみのいわゆみのおみ)

穂積磐弓臣。
欽明十六年七月四日、蘇我稲目とともに吉備の五郡に赴き、白猪屯倉を設置した。(紀)

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穂積忍山宿禰 (ほづみのおしやますくね)

日本武尊の妃、弟橘媛の父。
景行四十年十月に「時に王に従ひまつる妾有り。弟橘媛と曰ふ。穂積氏忍山宿禰の女なり」とあり、
五十一年八月に「(日本武尊の)妃、穂積氏忍山宿禰の女弟橘媛は、稚武彦王を生めり」とある。(『紀』)

『記』成務巻には、天皇が穂積臣らの祖、「建忍山垂根」の娘、弟財郎女をめとり、和訶奴気王を生んだとある。

系譜上の位置づけは定かではないが、崇神紀七年八月に「穂積臣遠祖」とある大水口宿禰の子か孫であろう。

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穂積臣(名欠) (ほづみのおみ)

推古八年、任那と新羅との間で戦いがあったとき、任那への援軍の副将軍となった。
大将軍は境部臣で、新羅の五城を攻略、新羅王は降伏したという。(紀)

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穂積臣五百枝 (ほづみのおみいおえ)

壬申の乱の近江側の将のひとり。天武元年六月二十六日、乱に際して、兄の穂積臣百足とともに倭京に遣わされ、兵を興したが、後に吉野側の大伴吹負のために捕えられ、赦されてその軍中にあった。(紀)

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穂積臣押山 (ほづみのおみおしやま)

継体紀七年六月条に引く百済本紀には、委(やまと)の意斯移麻岐弥(おしやまきみ)とある。

継体六年四月六日、百済に遣わされ、筑紫馬四十頭を賜った。
継体六年十二月、百済は任那の上タリ、下タリ、娑陀、牟婁の四県を請うたが、タリの国守の押山は、その与えることの可なることを奏し、大伴金村もその意見に同意して上奏した。よって、上表のままに四県を百済に賜った。
この後、流言があって、大伴金村と押山は百済の賄賂を受けたといわれたという。
継体七年六月、百済は姐弥文貴将軍らに押山を副えて、五経博士段楊爾を献じ、伴跛に奪われたというコモンの地がもどるよう計らってくれるように願った。
継体二十三年三月、百済王は下タリの国守押山に、加羅の多沙津を朝貢の海路として賜りたいことを乞うた。押山は奏問し、加羅王の反対を排して津を百済に与えることになった。このため、加羅は日本を恨み、新羅と結ぶようになったという。(紀)

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穂積臣咋 (ほづみのおみくい)

穂積噛臣とも。
大化元年八月、東国国司となったが、同二年三月十九日の朝集使の申状に、人民に対して不当に物を求め後に悔いて返したが、全ては返さなかった職務違反を指摘される。このときは大赦により罰せられず。
大化五年三月二十四日、蘇我倉山田石川麻呂が蘇我日向の讒言を受けたとき、天皇の命を受け、麻呂のもとへ遣わされその叛の虚実を問う。麻呂は天皇に直接返答したいと答え、再三問うも同様だったので官軍の囲むところとなり、山田寺で自縊することになった。
咋は麻呂の一党の田口臣筑紫らを捕らえ、軍兵を率いて寺を囲んだという。(紀)

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穂積臣百足 (ほづみのおみももたり)

天武元年六月、壬申の乱では近江側に属し、兵を興すために倭京へ遣わされた。飛鳥寺近くを陣営とし、小墾田の武器庫から兵器を近江へ運ぼうとしていたが、吉野側の将・大伴吹負の奇襲を受けて殺された。穂積臣五百枝の兄。(紀)

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