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長髄彦 (ながすねひこ)

神武即位前紀に見える中州の首長。饒速日命の義兄で、妹の三炊屋媛は饒速日命との間に可美真手命を生したという。

戊午年四月九日、神武天皇が河内国草香邑から胆駒山を越えて中州に入ろうとした時、長髄彦は「天神の子等の来ます所以は、必ず我が国を奪はむとならむ」としてこれを遮り、兵を起して孔舎衛坂で戦った。天皇の兄・五瀬命がこの時傷を負い、そのために死すことになった。
同年十二月四日、熊野を迂回してきた皇軍は再び長髄彦の軍と戦ったが、容易に勝つことはできなかった。時に金鵄の奇跡があり、長髄彦の軍は眩惑され、よく戦うことができなくなった。もと長髄といった邑の名をいま鳥見と呼ぶのは鵄にちなんだものという。
長髄彦は天皇に使者を遣わして、昔天降った櫛玉饒速日命がいて、自分の妹が嫁しており、また子息の可美真手命も生したことから、臣下として仕えていることを述べ、天神の子に二種があるのか、天神の子と称して人の領する地を奪おうとしているのではないか、という疑問を述べた。
天皇はそれに応えて、天神の子の証しである天羽羽矢一隻と歩靫を互いに見せ合った。長髄彦は天神の表を見て畏れたが、軍の用意は構えられ、天孫を唯一の支配者とする道理を理解できず改心しなかったため、饒速日命によって誅殺された。
「旧」は甥の宇摩志麻治命によって誅殺されたとする。

「記」には登美能那賀須泥毘古。登美毘古。中州での討滅については歌謡三首を載せるのみで具体的記述に欠き、邇芸速日命の帰順も登美毘古とは関連づけられていない。妹・登美夜毘売が邇芸速日命との間に宇摩志麻遅命を生したことは「紀」に同じ。
万葉集註釈に引く伊勢国風土記には、胆駒長髄と見え、神武天皇は大部の日臣命にその討伐を命じたという。

兄磯城弟磯城ら神武即位前紀記に散見する豪族の祖と同様、愚兄賢弟の説話類型に分類されるが、饒速日命とは義理の兄弟とされる点に特徴がある。大和鳥見に伝わるトミビコ伝承より、河内を舞台にした天降る神の伝承のほうが重視された結果であろう。

饒速日命可美真手命

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中臣葛野連飯麻呂 (なかとみのかどののむらじいいまろ)

神祇官の員外少史だった。
宝亀元年八月二日、幣帛を越前国の気比神、能登国の気多神に奉納するため遣わされた。ときに正七位上。(続紀)

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中臣葛野連広江 (なかとみのかどののむらじひろえ)

宝亀八年正月十日、従七位上から外従五位下へ叙せられた。(続紀)

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中臣熊凝朝臣五百嶋 (なかとみのくまこりのあそんいおしま)

天平九年八月二十八日、正六位下から外従五位下に叙せられ、
同年十二月二十三日、皇后宮員外亮に任じられた。
同十年閏七月七日、摂津亮に任じられ、
同年八月十日、皇后宮亮に任じられた。
同十四年四月二十日、従五位下に叙せられる。この時も皇后宮亮。
同十七年八月九日、中臣を除いて熊凝朝臣となった。(続紀)

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中臣熊凝連古麻呂 (なかとみのくまこりのむらじこまろ)

養老三年五月十五日、朝臣の姓を賜った。時に従六位上。(続紀)

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中臣習宜朝臣阿曽麻呂 (なかとみのすげのあそんあそまろ)

天平神護二年六月朔、正六位上から従五位下に叙せられ、
神護景雲元年九月四日、豊前介に任じられた。
宝亀元年八月二十一日、多ネ嶋守に任じられ、
同三年六月六日、大隈守に任じられた。
宝亀元年の叙任は道鏡の失脚と同月同日であり、これを左遷人事とみて、神護景雲三年九月の宇佐八幡神託事件の首謀者で大宰主神の習宜阿曽麻呂(阿蘇麻呂)を同一人物とする説が有力。

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中臣習宜朝臣山守 (なかとみのすげのあそんやまもり)

天平神護元年正月七日、正六位上から従五位下に叙せられ、
宝亀六年正月十六日、従五位上に叙せられた。(続紀)

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中臣習宜連笠麻呂 (なかとみのすげのむらじかさまろ)

養老三年五月十五日、笠麻呂ら四人に朝臣の姓を賜った。時に従八位上。(続紀)

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中臣部干稲麻呂 (なかとみべのほしいねまろ)

天平二十年七月十日、中臣葛野連の姓を賜った。ときに正六位下。(続紀)

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夏花 (なつはな)

景行天皇の熊襲征伐に従軍した。
景行十二年九月五日、天皇は周芳の娑麼から南を見、煙が多く立っているのは賊がいるためだろうとして、物部君の祖の夏花を、国前臣の祖の菟名手、多臣の祖の武諸木とともに遣わし探らしめた。(紀)
筑紫物部氏の祖先伝承にあった人物だろう。

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新家連阿久多 (にいのみのむらじあくた)

孝徳朝に天下に評を立てたとき、十郷を以って分け伊勢の度会の山田原に屯倉を設け、阿久多を督領としたという。(皇太神宮儀式帳)

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贄田物部首年足 (にえたのもののべのおびととしたり)

延暦二年四月二十日、大和国高市郡で越智池を築いた功により、正六位上から外従五位下へ叙せられた。(続紀)

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饒速日命 (にぎはやひのみこと)

物部氏の祖神。

『紀』に櫛玉饒速日命という。
神武即位前紀戊午十二月条に、天神の子で、かつて天の磐船に乗って大倭に天降り、長髄彦の妹・三炊屋姫を娶って、可美真手を生んだという。そのため長髄彦はこれを主君として仕え奉っていたが、神武東征に会ったので、長髄彦は饒速日の有する天羽羽矢と歩靫を天神の子の証として示し、神武の軍に従うことを拒んだ。
そこで、饒速日は長髄彦を殺して帰順し、神武はその忠誠の心を褒めて寵したという。

『記』は邇芸速日といい、神武が登美毘古(登美能那賀須泥毘古)と兄師木・弟師木を討ったとき、赴いて神武に天津瑞を献じて仕え奉った。登美毘古の妹・登美夜毘売を娶り、宇摩志麻遅(物部連、穂積臣、采女臣の祖)を生んだとある。

『旧』天神本紀、天孫本紀には、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊、またの名は天火明命、またの名は天照国照彦天火明尊、また饒速日命、膽杵磯丹杵穂命とある。天忍穂耳尊が高皇産霊尊の娘・萬幡豊秋津師姫栲幡千々姫命を妃として生んだ子で、瓊々杵尊の兄で、天孫であるという。
従神を引き連れて河内河上哮峯に天降り、大倭国鳥見白庭山に遷り、長髄彦の妹・御炊屋姫を娶って宇摩志麻治を生んだ。また、それ以前には天上で天道日女を妃として、天香語山を生んだという。『旧』天孫本紀には、天香語山の子孫として十八世孫(尾張氏)、および弟・宇摩志麻治の子孫として十七世孫(物部氏)までの系譜が記されている。

また、『録』は神饒速日命、饒速日命、速日命などの名で呼び、石上朝臣をはじめとする百を超える畿内の物部氏族の祖としている。

『旧』にある尾張氏祖神の天火明命と同一視する位置づけについては、記紀では系統不明の饒速日命を天孫系に付会したものとする説と、継体欽明朝における物部氏と尾張氏との交流関係を反映したものとする説が有力。
饒速日命伝承そのものは、六世紀中葉までに原形を成していたものと見られる。

櫛玉饒速日命

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漆部宿禰道麻呂 (ぬりべのすくねみちまろ)

天平宝字八年十月七日、藤原仲麻呂追討の論功があった時、正六位上から外従五位上に叙せられた。(続紀)

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漆部造兄 (ぬりべのみやつこあに)

用明二年四月二日、物部守屋は群臣が自分を謀ると聞いて、河内の阿都の別業へ退き、人を集めたが、同時に兄や物部八坂・大市造小坂を遣わして蘇我馬子に阿都に移った理由を告げたという。(紀)

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