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 さ 

狭井宿禰尺麻呂 (さいのすくねさかまろ)

文武四年六月十七日、律令選定の功により、禄を賜った。時に追大壱。(続紀)

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狭井連檳榔 (さいのむらじあじまさ)

白村江期の将軍。
斉明七年八月、一書に、阿倍引田比羅夫・物部熊らの軍に続けて、百済救援のために派遣されたという。
同年九月、秦造田来津とともに兵五千余を率い、豊璋を護衛しながら百済に入った。時に大山下。
天智元年十二月朔、同年五月に王位についた豊璋とその臣の鬼室福信から、州柔から避城への遷都を相談される。朴市田来津が反対したが遷都は実行されたという。(紀)

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狭井連佐夜 (さいのむらじさや)

播磨国風土記讃容郡中川里の弥加都岐原条にみえる。
仁徳天皇の時代、伯耆の加具漏と因幡の邑由胡の二人は驕って節度なく、酒で手足を洗っていた。朝廷はこれをとがめ、佐夜を遣わして二人を召すことにした。時に佐夜は二人の族の者までことごとく捕縛し、参上する途中、水の中に漬けて拷問した。しかしその中には執政大臣の娘が二人いたため、驚いて送り返したという。
見つけて送った場所を見置山といい、水にかづけて溺れさせた場所を美加都岐原という、地名起源説話のひとつとして現されている。

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桜井田部連胆渟 (さくらいのたべのむらじいぬ)

崇峻即位前紀に見える。河内国司の言によれば、用明二年七月の丁未の乱の後、餌香川原に戦死者の遺体が数百あり、その頭身は腐敗して身元の確認は難しく、衣の色を見て引き取られている状態だった。
胆渟もその遺体のひとつとなっていたが、飼っていた犬がいて、主人の遺体をくわえながら傍に伏し、これを守った。墓に埋葬された後、ようやく離れて行ったという。(紀)
物部守屋の配下に属した人物とする説がある。

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佐夜部首穎主 (さやべのおびとひでぬし)

摂津国の人。
天長元年二月に山城少目に任じられ、承和四年三月に直講となった。(文徳実録卒伝)
承和六年十月十九日、善友朝臣の姓を賜り、本居を改めて左京四条二坊に貫する。時に直講博士、従六位下。(続日本後紀)
同八年五月、助教となった。(文徳実録卒伝)
同十二年正月七日、正六位上から外従五位下に叙せられる。
同十四年二月十一日、大学博士に任じられる。
同十五年正月七日、従五位下に叙せられる。(続日本後紀)
仁寿元年正月十一日、摂津権介に任じられる。
仁寿元年六月二十九日、七十二歳で卒する。この時も摂津権介、従五位下。
嘉祥二年五月に引退を請うていたが、朝廷は優れた儒学者だった穎主を惜しみさらに摂津権介に任じたという。(文徳実録)

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志貴連広田 (しきのむらじひろた)

美作守阿倍朝臣帯麻呂らが殺人を犯し、被害者の一族が太政官に訴え出たとき、右大弁大伴宿禰道足らとともに調査せず事件を隠蔽した。
怠慢の罪により罰せられることが決まったが、天平七年九月二十八日、聖武天皇の詔があって罪を赦された。ときに少史正七位下。(続紀)

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志太連宮持 (しだのむらじみやもち)

陸奥国の人。
弘仁二年四月四日、征夷の際の勇敢を認められ、外正六位下から外従五位下に叙せられた。(後紀)

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曽祢連五十日虫 (そねのむらじいかむし)

伊賀牟志とも。
天平九年二月十四日、従五位下から従五位上に叙せられる。
天平宝字五年九月四日、薨じた。時に従三位、命婦。(続紀)

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曽祢連韓犬 (そねのむらじからいぬ)

天武四年四月十日、間人連大蓋とともに遣わされて大忌神を広瀬の河原に祭った。時に大山中。
天武十年十二月二十九日、物部連麻呂らとともに小錦下に叙せられた。(紀)

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曽祢連足人 (そねのむらじたるひと)

慶雲元年正月七日、従六位下から従五位下に叙せられ、
和銅四年四月七日、従五位上から正五位下に叙せられた。
霊亀元年正月十日、正五位上となった。(続紀)

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曽祢連麻呂 (そねのむらじまろ)

播磨国風土記の讃容郡中川里条にみえる。
天智天皇の時代、里人の丸部具が河内国の兔寸村の人から剣を買い取ったが、その後一家は滅亡した。苫編部犬猪がその跡の土中から剣を得、鍛治師に刃を焼かせたところ、剣は伸び縮みして蛇のようだったので、霊妙きわまりない剣として朝廷に献じた。
天武朝の甲申年七月に曽祢連麻呂が遣わされて、もとの処に剣は送り返されたという。
天武紀の三年八月三日条に、石上神宮に納められていた諸家の宝物を子孫に返したことが見えるが、この剣も石上神宮で管理されていたものか。

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