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高倉下命 (たかくらじのみこと)

紀伊国熊野の人。神武即位前紀戊午の年、磐余彦尊の東征軍が熊野に至ったとき、土地の神の毒気により人々は皆萎え疲れていた。
そのとき高倉下が見た夢の中で、天照大神が武甕雷神に葦原中国の平定を命じたが、武甕雷神は、自分が行かずとも我が剣を降せば自然と平定されるだろうと答え、天照大神もこれを許した。武甕雷神は高倉下の夢枕に現れ、我が剣「フツノミタマ」をお前の倉の中に置く故、それを天孫に奉るように、と告げた。
目覚めた高倉下は、その教えのままに倉の中から逆さまに突き刺さっていた神剣を取り、磐余彦尊に奉った。
そこで磐余彦尊も目が覚め、毒気に当たった兵卒も皆目が覚めたという。(『紀』)

『記』にも熊野之高倉下とあり、横刀をもって天つ神の御子の伏せる所にやって来て、これを献ずると天つ神の御子は目覚めその横刀を受け取り、山の荒神もおのずから切り倒され、惑い伏した軍兵も皆覚め起きたとある。

『旧』に天香語山命と同一神。饒速日尊の子で、尾張氏の祖という。
布都御魂剣の降臨譚は石上神宮の古社伝に取材して記紀に取り入れられたと見られるが、この神剣と倉の管理に関与する高倉下を、『旧』編纂者は物部氏の人物と考察したものか。

天香山命

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高橋連牛養 (たかはしのむらじうしかい)

続紀天平勝宝六年二月二十日条にみえる。
天平七年、太宰大弐小野朝臣老の命令を受け南嶋(薩摩諸島)に遣わされ、島々に立札を建てた。(続紀)
漂流して島に着いた者への便をはかるためのものだったらしい。

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高橋連鷹主 (たかはしのむらじたかぬし)

宝亀七年正月七日、正六位上から外従五位下に叙せられる。
宝亀九年二月二十三日、画工正に任じられた。このときも外従五位下。(続紀)

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高橋連虫麻呂 (たかはしのむらじむしまろ)

藤原朝臣宇合の庇護下にあったと見られる歌人。
万葉集に、「四年壬申、藤原宇合卿の西海道節度使に遣さるる時に高橋連虫麻呂が作る歌一首」をはじめ、計三十六首がある。うち十九首が東国に題材を取ったものであり、藤原宇合が常陸国守だった養老年間に、その下僚として務めた際に詠んだものと見られる。
正倉院文書天平十四年十二月十三日の日付を持つ優婆塞貢進解に、「少初位上高橋虫麿」がみえ、同一人物とする説がある。これによるならば、山背国葛野郡から優婆塞を貢進した点から推して、延喜式に高橋神社のみえる山城国愛宕郡を本貫としていたと考えることもできよう。

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高屋連赤麻呂 (たかやのむらじあかまろ)

神護景雲元年正月十八日、正六位上から外従五位下へ叙せられた。(続紀)

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高屋連薬女 (たかやのむらじくすりめ)

河内国古市郡の人。
慶雲元年六月十一日、三つ子の男児を産んで、あしぎぬ二疋・綿二屯・布四端を賜った。(続紀)

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高屋連並木 (たかやのむらじなみき)

天平神護元年十月二十二日、幽閉中の淡路公(淳仁天皇)が逃亡しようとしたため、淡路掾だった並木が兵を率いてこれを捕らえ、引き戻した。淡路公はその翌日薨じた。
天平神護二年三月二十六日、外従五位下で遠江大掾に任じられた。(続紀)

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高屋連枚人 (たかやのむらじひらひと)

河内国石川郡より墓誌が出土。
極位は正六位上で極官は常陸国大目。宝亀七年十一月二十八日に葬られたという。

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多芸連国足 (たぎのむらじくにたり)

物部多芸宿禰国足を見よ。

物部多芸宿禰国足

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建胆心大禰命 (たけいこころおおねのみこと)

天孫本紀に、宇摩志麻治命の七世孫。伊香色雄命の子と見られる。
崇神朝に大禰となって供奉したという。
天皇本紀も、崇神四年二月に大禰に任じられたとする。(旧)

伊香色雄命

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武建大尼命 (たけたつおおねのみこと)

天孫本紀に、宇摩志麻治命の六世孫で欝色雄命の子。開化朝に大尼となって供奉したという。
天皇本紀にも武建命とみえ、開化八年正月に大峯命と並んで大祢に任じられたとある。(旧)

欝色雄命大峯大尼命

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建新川命 (たけにいかわのみこと)

大閉蘇杵の孫。大宅首の祖という(『録』左京神別上、右京神別上)。

『旧』天孫本紀に、宇摩志麻治命七世の孫で、十千根らの弟とある。伊香色雄の子。
垂仁天皇の時代、侍臣として仕え、志紀県主らの祖という。伊香色雄の妻に「倭の志紀彦」の娘がいるので、おそらくは彼女が母であろう。
『紀』で神武に降ったとされる弟磯城の一族が系統不明を嫌って、平安初期に物部氏同族に付会したものか。

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武諸隅命 (たけもろずみのみこと)

物部武諸隅連。矢田部造の遠祖。
崇神六十年七月十四日、天皇の「武日照命(穂日命の子・建比良鳥命のこと)が天から持ってきた神宝が出雲の大神宮にある。それが見たい」との詔により、出雲に遣わされる。
出雲臣の祖・振根は筑紫に行っていて留守だったため、その弟の飯入根が神宝を差し出したという。
別名を大母隅。(『紀』)

『旧』天孫本紀にも同様の記載があり、復命したのちに大連になり、神宮(石上)を奉斎することになったとある。
ただし、大母隅は彼の弟で、別人。
物部胆咋宿禰の娘・清媛を妻として、多遅麻らを生むという。

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田部宿禰男足 (たべのすくねおたり)

天平宝字八年十月七日、藤原仲麻呂追討の論功のとき、正六位上から外従五位下に叙せられた。
神護景雲元年十月壬戌、従五位下に叙せられ、
同二年二月十八日、主計助に任じられた。
宝亀二年九月十六日、典薬員外助に任じられた。この時も従五位下。(続紀)

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田部宿禰足島 (たべのすくねたるしま)

天平神護元年正月七日、正六位上から外従五位下へ叙せられる。
神護景雲三年八月十九日、淡路守に任じられる。このときも外従五位下。(続紀)

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多弁宿禰命 (たべのすくねのみこと)

天孫本紀に、宇摩志麻治命の七世孫で建胆心大禰命の弟。宇治部連、交野連らの祖。
崇神朝に宿禰となって供奉したという。
天皇本紀も、崇神四年二月に宿禰に任じられたとする。(旧)

建胆心大禰命

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田部連(名欠) (たべのむらじ)

舒明元年四月朔、掖玖に遣わされ、
同二年九月、掖玖から戻った。(紀)

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田部連国忍 (たべのむらじくにおし)

天武十年十二月二十九日、小錦下位に叙せられた。(紀)

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知波夜命 (ちはやのみこと)

国造本紀に、出雲色大臣命の五世孫で、成務朝に参河国造に任じられたことがみえる。(旧)

出雲醜大臣命

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千速見命 (ちはやみのみこと)

饒速日命十二世の孫。長谷部造の祖という。(『録』大和神別)

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筑紫企救物部大斧手 (つくしのきくのもののべのおおおのて)

雄略十八年八月十日、物部目に従って伊勢の朝日郎の征伐に加わった。
物部目は自ら太刀をとり、大斧手に楯をとらせて進んだ。朝日郎の射た矢は大斧手の楯と二重の甲を通し、さらに大斧手の身体に一寸も入ったが、大斧手は楯をもって物部目を守り、目は朝日郎を捕らえて斬ったという。(『紀』)
無姓部民階級の人物であるが、「“大”斧手」と表記される点に顕彰意識がうかがえる。筑紫物部の間で伝承されてきたものか。

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竹斯物部莫奇委沙奇 (つくしのもののべのまがわさか)

欽明朝に内臣配下として百済へ遣わされた兵士。
欽明十五年十二月条に、十二月九日に百済が新羅の函山城を攻略した際、火箭を用いて活躍し、勝利に寄与したことがみえる。

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筑簟命 (つくはのみこと)

采女臣の支属という。一書に筑波命とも。
常陸国風土記の筑波郡段に、崇神朝に国造として遣わされ、それまで紀国と呼ばれていた国号を自らの名にちなんで改め、筑波国としたという。

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道鏡 (どうきょう)

河内国の人。俗姓は弓削連。『続紀』天応元年正月条に弟の弓削浄人らは若江郡の人とあり、また称徳天皇がしばしば行幸した弓削寺、由義(弓削)行宮も若江郡にあることから、道鏡の本貫も河内国若江郡にあったものと見られている。
天平宝字八年九月の藤原仲麻呂の上表には、道鏡の先祖を大臣に擬している。これは物部守屋のことで、道鏡が属した弓削氏が物部氏族であったことによるだろう。公卿補任等にある施基親王の落胤とする説は誤り。

薨伝によれば、梵文に通じており禅の修業を積んでいることで知られ、このために内道場に入り、禅師に列することになったとされる。

天平宝字五年に孝謙上皇が近江保良宮に行幸した時より、その看病にあたって寵愛されるようになった。このことが上皇と淳仁天皇との間に不和を生じさせたという。
天平宝字六年五月二十三日、上皇は保良宮から平城京に戻り、翌月三日には恒例の祭祀など小事は天皇が行い、国家の大事と賞罰は自分が行うことを宣言し、藤原仲麻呂との対立が表面化した。道鏡の進出もこのころ始まる。
天平宝字七年九月四日、小僧都慈訓は僧綱として政務を行うのに道理に合わぬことをしており、その職に相応しくないとして退けられ、道鏡が代わって小僧都に任じられた。

天平宝字八年九月、藤原仲麻呂は乱に敗れ、道鏡は禅師から大臣禅師に任じられ、職分封戸は大臣に准ぜられた。
天平神護元年八月朔、称徳天皇の宣命に「朕師大臣禅師」とあり、和気王の変に座した栗田道麻呂・大津大浦・石川長年の罪を許して道鏡に賜り、散位として仕えさせたとある。
同年十月、天皇は河内国弓削行宮に行幸し、弓削寺の仏を礼し、同年閏十月、この寺に食封二百戸を捨した。この時道鏡は、太政大臣禅師の位を授けられた。また、文武百官の拝賀を受け、その後綿千屯を賜った。
天平神護二年十月、隅寺に現われた舎利を法華寺に安置し、詔によって法王の位を賜った。同月、法王としてその月料を供御に准ぜられ、法臣大僧都円興は大納言、基真は参議に准ぜられた。
神護景雲三年正月三日、法王として西宮前殿にて大臣以下の拝賀を受け、自ら寿詞を告げ、天皇も同月七日、法王宮に御して五位以上を宴した。さらに道鏡は自ら五位以上にそれぞれ摺衣一領を、蝦夷にそれぞれ緋袍一領を与えた。同三年七月には初めて法王宮職の印を用いている。

神護景雲三年九月、宇佐八幡宮の神託として大宰主神習宜阿曽麻呂から上奏があった。道鏡が皇位につけば天下太平ならんとするものである。道鏡はこれを聞いて喜び自負した。
天皇は、事を確かめるため和気清麻呂を宇佐に遣わした。道鏡はこの時清麻呂を呼び、即位のことを帰命すれば、重用することを約したが、清麻呂は宇佐八幡神より、我が国は開闢以来君臣定まり臣を以って君となすこと未だあらず、天つ日嗣は必ず皇緒を立てよ、無道の人はすみやかに除くべし、との神託を受け、帰京してこれを奏した。
道鏡は怒り、清麻呂の本官を解き因幡員外介とした後、さらに除名して大隈に流し、清麻呂の姉法均尼も備後に流した。

この後も、神護景雲三年十月、天皇は河内由義宮に行幸し、同宮を西京として帝都に准じ、弓削一族の者の位を栄進させ、宝亀元年正月十二日に河内国大県郡・若江郡・高安郡の民の宅のうち、宮地に入るものに代価を払い、同年二月二十七日、再び由義宮に行幸し、同年四月、造由義大宮司を任じ、由義寺塔を造り、弓削氏の男女に物を与えるなど、天皇と道鏡の仲は密接で従来どおりの政策が進められた。

宝亀元年八月四日、称徳天皇が道鏡の居所である西宮で崩御した後は、葬礼の後も御陵に仕えそのまま庵して陵下に留まった。この間、藤原永手・宿奈麻呂・雄田麻呂らは吉備真備を抑えて権力体制を整えることになる。
同月二十一日、皇太子(白壁王)は令旨を下して、天皇の陵土の乾かぬうちに奸謀が発覚したが、天皇が寵幸したところの故を以って法によって刑せずとし、造下野国薬師寺別当に任じ、即日、左大弁佐伯今毛人らが道鏡を促すために遣わされ、下野へ出発した。
翌日、弟の弓削浄人、その子広方、広田、広津は土佐国に流された。

宝亀三年四月、下野国の奏言に、道鏡は下野造薬師寺別当として死去したとある。薨伝に、庶人としての待遇で葬られたという。

日本紀略宝亀元年八月条に引く藤原百川伝や、水鏡などには、称徳天皇と道鏡の関係を語る猟奇的な説話が見える。また日本霊異記(下巻)も道鏡が女帝と同じ枕に寝て情を交わし政治の実権を執って天下を治めたとする説話を載せる。

道鏡が政権を掌握した称徳朝では仏教重視の政治が行われた。天平宝字八年十月には放生司が設置され、魚鳥類を山野に放ち鷹や犬を飼って狩猟漁撈をすることが禁止され、諸国が宮中へ魚や肉を貢ぐことも禁じられた。
同年十一月には諸国の国分寺の造営を促進し、国司郡司が寺の封田・財物を犯し用いることを禁じた。
天平神護元年に始まった西大寺の建立は、東大寺に対抗し仏教界での勢力を拡大する意図があったものだろう。
天平神護元年三月五日には、寺院の墾田は天平勝宝元年に定められた限度内で認めたが、墾田永年私財法による権門勢家の墾田は禁じた。これにより大寺院の開墾は進んだが、貴族階級からの反感をまねくことになったと考えられる。

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十千根命 (とおちねのみこと)

止智根、十千尼(『録』)ともいう。

垂仁二十五年二月八日、武渟河別(阿倍氏祖)、彦国葺(ワニ氏祖)、大鹿島(中臣氏祖)、武日(大伴氏祖)とともに、五大夫のひとりとして、天皇から、先帝・崇神天皇は神祇を礼祭し、身を慎んだため、人民は富になり、天下は太平であったので、いま自分の代にあたっても、神祇を祭祀することを怠ってはならないとの詔をうけた。
同二十六年八月三日、天皇から、たびたび使者を出雲に遣わしその国の神宝を検めさせたが、はっきり報告できるものがいないため、汝が自ら出雲に行き検校して定めよ、との勅をうけたので、神宝をよく調べて分明に報告した。そのため、天皇より神宝のことを掌らされたとある。
垂仁八十七年二月五日、五十瓊敷命が老年のため石上神宮に収めた神宝を掌ることができないので、以後は妹の大中姫命に掌ることを命じたが、大中姫も、女人のためをもってこれを辞した。そうして、十千根に授けて治めさせたとある。
物部連が今にいたるまで石上神宮を治めるのは、このためであるという。(『紀』)

『旧』天孫本紀には、宇摩志麻治命の七世の孫で、伊香色雄の子。垂仁天皇の時代、物部連の姓を賜り、五大夫のひとりで、ついで大連となり、神宮を奉斎したとある。
出雲神宝の検定、石上神宮の掌治については、『紀』と同様の記事を載せる。
武諸隅の娘・時姫を娶り、胆咋、印岐美、金弓など五男を生むという。
天皇本紀にも垂仁四年二月に五大夫のひとりとしてみえ、同八十一年二月に大連に任じられたことがみえる。

『録』和泉神別に、饒速日命の七世の孫で、若桜部造および安幕首の祖とある。

地方豪族の神宝の検校、石上神宮の神庫の管掌といった物部氏の職掌の由来譚に登場する点、「物部連」の賜姓など、物部氏伝承の中でもとりわけ重視されていたといえる。

物部十千根大連

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時姫 (ときひめ)

天孫本紀に、十市根命の妻として見え五児を生したとある。胆咋宿禰、止志奈連、片堅石連、印岐美連、金弓連がこれにあたる。物部武諸隅連の娘。(旧)

武諸隅命

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捕鳥部万 (ととりべのよろず)

物部守屋の配下。
用明二年七月、蘇我馬子らが物部守屋を攻めたとき、百人を率いて守屋の難波宅を守っていたが、守屋が滅んだことを聞き守備隊を解散、馬に乗って夜に紛れ逃れた。茅渟県有真香邑の山中にかくれ、数百の兵を相手に弓をもって奮戦。寄せての軍勢に呼びかけて、自分は天皇の楯となって勇をあらわそうとしてきたのに、推問されずかえって窮地におちいったことを訴えたが聞き入れられず、さらに戦って三十人あまりを殺したが、ついに自殺した。
河内国司はその死の有様を朝廷に奏上し、朝廷の命を受けてその屍を八つ切りにし晒した。
ときに、万の飼い犬が主人の死を嘆き吠え、その首をくわえ出して古い墓に収め、枕側に伏して飢え死んだので、朝廷はこれを哀れみ万の族に命じ、墓を作って葬ることを許した。
そのため万の族は墓を有真香邑に並べ作り、万と犬とを葬ったという。(『紀』)

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豊媛 (とよひめ)

天孫本紀に、物部雄君連の妻で、物部目連(【3】)の娘。
雄君連との間に二児を生したという。忍勝連と金弓連(【3】)がこれにあたるか。(旧)

物部雄君連物部目連公

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