略して『旧事紀』『旧事本紀(』と通称されています。
その序文によると、推古天皇の二十八年(620)に勅によって、聖徳太子が蘇我馬子とともに撰定したものとされます。近世になるまでこれが信じられ、強い影響力をもっていました。
しかし、本文の大部分が『古事記』『日本書紀』『古語拾遺(』からの引用で成っていることや、天皇謚号などのはるか後代でなければ知りえないことに関する記載があること、序文と本文との間に不備があることなどから、現在では聖徳太子らが編纂に携わったことは否定されています。また、『古事記』『続日本紀』『弘仁格式』などと比べて序文の形式が当時のものにかなっていないことも指摘されています。
そのため、『日本書紀』推古二十八年条に、「皇太子・嶋大臣、共に議りて、天皇記及び国記、臣連伴造国造百八十部并て公民等の本記を録す」という記事に付会して成立年代をさかのぼらせた「偽書」であるといわれます。
実際の成立年代は、平安初期と考えられます。
その上限は、本文中に加我国(が「嵯峨朝の御世、弘仁十年(十四年の誤りか)に越前国を割て、加賀国と為す」とあり、823年以降とみられます。また下限は、藤原春海が『日本書紀』の講書を行ない、その中で『先代旧事本紀』に言及した延喜四年(904)〜延喜六年のころまでとみられます。
『古事記』『古語拾遺』『藤氏家伝』『高橋氏文』『新撰姓氏録』といった、諸氏の家記に関連する書が先んじて編纂され、これに刺激を受ける形で『先代旧事本紀』も作成されたようです。
「偽書」の評価を下されたのは上記の「聖徳太子の撰」を騙ったと見られているためで、内容的には、全体に物部氏に関する独自の伝承が織りこまれています。これには拠るべき古伝があったのではないかとみられ、物部氏伝承自体がすべて偽作されたわけではないと考えられます。
編纂の目的は、「物部氏は由緒正しい家柄で、神武天皇以来、代々石上神宮(の神を祀ってきた」ことを主張することにあるとみられます。この目的と直接関係しない部分には、多く重複・矛盾がみられます。そのため、未完成説もあるようです。
作成者は不明ながらも、物部氏との同族意識を持った人物だったと思われます。
構成は、全十巻から成ります。
第一巻は「神代本紀」および「陰陽本紀」で、天地のはじまりから、天照太神ら三貴子の誕生まで。
第二巻は「神祇本紀」で、天照太神と素戔烏尊の誓約から、素戔烏尊の高天原追放まで。
第三巻は「天神本紀」で、物部氏の祖神である饒速日尊の天降りから、出雲国譲りまで。
第四巻は「地祇本紀」で、素戔烏尊・大己貴命ら出雲神の神話。
第五巻は「天孫本紀」で、饒速日尊の後裔とする尾張氏と物部氏について。
第六巻は「皇孫本紀」で、瓊々杵尊の天降りから、神武東征まで。
第七巻は「天皇本紀」で、神武天皇の即位から、神功皇后まで。
第八巻は「神皇本紀」で、応神天皇から、武烈天皇まで。
第九巻は「帝皇本紀」で、継体天皇から、推古天皇まで。
第十巻は「国造本紀」で、大倭国造から、多ネ嶋国造まで、135の国造の由来について記されています。
物部氏の祖神・饒速日尊(について、『日本書紀』は神武天皇の東征以前に大和に天降り、「天神の子」を称して、神武天皇もそれを認めたとしています。しかし、饒速日尊がいつ天降り、神々の系譜上どこに位置するのかには触れていません。
これに対し、先代旧事本紀は「神代本紀」において、中臣氏や忌部氏、阿智祝部氏らを、皇室に連なる神世七代天神とは別の独化天神の後裔として、皇室と距離を取らせる一方、「天神本紀」などでは、饒速日尊を尾張氏の祖神である天火明命と同一神にして、瓊々杵尊と同じ「天孫」に位置づけ、物部氏の格の高さを主張しています。
また、物部氏の人物が、「食国(の政(を申す大夫」「大臣」「大連」といった執政官を多く出し、代々天皇に近侍してきたことを強調します。
『先代旧事本紀』の作成者が、もっとも語りたかったのは、物部氏と石上神宮のつながりと思われます。
石上神宮の神のうち、「布都御魂(」は、出雲国譲りと神武東征に登場する、天皇にまつろわぬモノをことむける剣神であり、「布留御魂(」は、タマシヅメ・タマフリの力を持つ、十種の天璽瑞宝の霊威のことで、饒速日尊が天神御祖(から授けられて天降ったものとされています。
なお、現在の主祭神には「布都斯魂(」もありますが、これは物部首((ワニ氏族。のちの布留宿禰)が関与するようになった後、フツノミタマから派生した神と思われます。
「布都御魂」「布留御魂」は両者とも、物部氏の職掌に密接に関係する性格を持ちます。
物部氏は、大和王権に従わない人たち=ツチグモを、富を生み出すオホミタカラに変換することを任務にしていたと考えられます。各地の豪族を、ときに武力も用いて屈服させた後、彼らの神を象徴する神宝・瑞宝を没収し、石上神宮に集めて、祟り神と化さないよう魂を鎮める呪術を行ないました。
魂の状態をあやつる力は、逆に、天皇国家の霊を活性化することにも用いられました。
また、これらに必要な武器・祭器を製作する技術者集団としての性格も、物部は持っていたといわれています。
しかし、『先代旧事本紀』が作成された時代には、こういった役割を物部氏は終えており、また石上宅嗣(の亡き後、中央政界の表舞台にも物部氏の人物が登場することは無くなっていきました。
「天孫本紀」の物部氏系譜は、十七世孫に物部麻呂((元明朝の左大臣・石上麻呂。宅嗣の祖父)のみを記します。そして、物部守屋すら麻呂の曽祖父である物部大市御狩(の弟という傍流に位置づけ、また石上神宮が蘇我氏支配下にあった時期も、物部鎌姫大刀自(らの手によって、連綿と物部氏による祭祀が続けられたとしています。
旧来の職掌に変化が生じ、本宗家の貴族としての力が衰退していった後、物部氏に残されていたのは、宮廷祭祀のひとつである鎮魂祭に取り入れられた鎮魂呪術と関係する、石上神宮とのつながりを主張することだったのです。