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 巻第六 皇孫本紀 

天饒石国饒石天津彦々火瓊々杵尊(あまにぎしくににぎしあまつひこひこほのににぎのみこと)
または天饒石国饒石尊といい、または天津彦々火瓊々杵尊という。

天の祖神が詔され、天つしるしの鏡と剣を授けられて、諸神を副い従わせられたことは、天神本紀にある。

高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)は、真床追衾(まとこおうふすま)で皇孫・天津彦火瓊々杵尊を包み、お伴と先払いの神を遣わされた。そして、皇孫が天の磐座(いわくら)を離れ、天の八重雲を押しひらき、勢いよく道をふみ分けて天降ろうとされるとき、先払いの神が戻ってきて申しあげた。
「一柱の神が天の八達之衢(やちまた)にいて、上は高天原(たかまがはら)から下は葦原の中国(なかつくに)までを照らしています。その鼻の高さは十咫(とあた)、背の高さは七咫あまり、まさに七尋(ななひろ)というべきでしょう。また、口の端は明るく光り、目は八咫鏡(やたのかがみ)のようで、照り輝いていることは赤酸漿(あかほおずき)に似ています」

そのため、お伴の神を遣わして詰問させようとしたが、たくさんの神がいるものの、みな眼光が鋭く険悪な雰囲気になってしまって、尋ねることはできなかった。
そこで、手弱女(たおやめ)ではあったが、天鈿売(あまのうずめ)に命じて仰せられた。
「お前は眼力が人に勝れた者である。行って尋ねなさい」
天鈿売命は、その胸をあらわに出し、腰ひもを臍(へそ)の下まで押しさげて、あざ笑って向かい立った。

(ちまた)の神は、天鈿売命に尋ねた。
「あなたはなぜ、こんなことをするのか」
天鈿売命は答えていった。
「天照大神の御子がおいでになる道に、このようにいるのは誰なのか、あえて問います」
街の神はこれに答えていった。
「天照大神の御子が、今降っておいでになると聞きました。それで、お迎えしてお待ちしているのです。わが名は猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)です」

そこで天鈿売がまた尋ねていった。
「あなたが私より先に立って行くべきですか、それとも私があなたより先に立って行くべきですか」
猿田彦の神は答えていった。
「私が先に行きましょう」

天鈿売はまた尋ねていった。
「あなたはどこへ行こうとするのですか。皇孫はどこへおいでになることになりますか」
猿田彦の神は答えていった。
「天神の御子は、筑紫の日向(ひむか)の高千穂(たかちほ)の、槵触之峯(くしふるのたけ)に到られるでしょう。私は伊勢の狭長田(さなた)の五十鈴(いすず)の川上に行くでしょう」
そしていった。
「私を顕したのはあなたですから、あなたは私を送って行ってください」

天鈿売命は、天に帰って報告した。皇孫は天鈿売命に命じて仰せられた。
「この先導の役に奉仕した猿田彦大神は、その正体を明らかにして報告した、お前がお送りしなさい。また、その神の御名は、お前が負ってお仕えしなさい」
こうして猿女君(さるめのきみ)らは、その猿田彦神の名を負って、女性を猿女君と呼ぶことになった。

猿田彦神は、阿耶訶(あざか)におられるときに、漁をしていて、比良夫貝にその手をはさまれて、海に沈み溺れてしまった。それで、海の底に沈んでおられるときの名を、底度久御魂(そこどくみたま)といい、その海水が泡粒になって上がるときの名を、都夫立御魂(つぶたつみたま)といい、その沫が裂けるときの名を、沫佐久御魂(あわさくみたま)という。

さて、天鈿売命は、猿田彦神を送って帰ってきて、ただちに大小の魚たちを追い集め、尋ねていった。
「お前たちは、天神の御子にお仕え申しあげるか」
このとき、多くの魚はみな、
「お仕え申します」
といったが、その中で海鼠(なまこ)だけが答えなかった。
そこで、天鈿売命が海鼠に、
「この口が答えない口か」
といって、細小刀でその口を切った。そのため、今でも海鼠の口は裂けているのである。
各天皇の御代ごとに、初物の魚介類を献上するとき、猿女君らに分かち下されるのは、これがその由来である。

天津彦々火瓊々杵尊は天降って、筑紫の日向の襲の槵触二上峯にいらっしゃった。
このとき、天の浮橋から、浮島のある平らな所にお立ちになって、痩せた不毛の地を、丘続きに良地を求めて歩かれ、吾田(あた)の笠狭(かささ)の崎にお着きになった。
長屋の竹嶋に登り、その地を見わたすと、そこには一柱の神がいて、みずから事勝国勝長狭(ことかつくにかつながさ)と名のった。この事勝国勝神は、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の子で、またの名を塩土老翁(しおつちのおじ)という。

皇孫は事勝国勝長狭に尋ねて仰せられた。
「ここは誰の国なのか」
これに答えて申しあげた。
「私、長狭がいる国で、住んでいる国です。しかし、まずはごゆっくりなさいませ。国は詔のままに、奉りましょう」
そこで、皇孫はそこに赴かれ、留まることにした。

そうして仰せになった。
「この地は韓国(からくに)に相対していて、まっすぐ道が笠沙の御崎に通じており、朝日のよくさす国であり、夕日の明るく照らす国である。だから、ここはよい土地だといえる」
詔して、地底の磐に太い宮柱を立てて、高天原に向かって千木を高くそびえさせた宮殿にお住まいになった。


天孫はひと休みされた後に、浜辺においでになり、長狭に尋ねて仰せになった。
「あの波頭の立っている波の上に、大きな御殿を立てて、手玉ももゆらに機を織る美少女は誰の娘か」
答えて申しあげた。
「大山祇神(おおやまつみのかみ)の娘たちです。姉を磐長姫(いわながひめ)といい、妹を木花開姫(このはなさくやひめ)といいます。またの名は豊吾田津姫(とよあたつひめ)、またの名を鹿葦津姫(かあしつひめ)です」

皇孫が美しい乙女に尋ねて仰せられた。
「お前は誰の娘か」
乙女は答えていった。
「私は大山祇の娘で、名は神吾田鹿葦姫、またの名を木花開耶姫といいます」
そして、
「また、私の姉に磐長姫がいます」
といった。

皇孫は仰せられた。
「私はお前を妻にしたいと思うが、どうか」
答えていった。
「私の父・大山祇神がいます。どうか父にお尋ねください」
そのため皇孫は、大山祇神に仰せになった。
「私はお前の娘を見そめた。妻にしたいと思うがどうか」
大山祇神は、大変喜んで、二人の娘に数多くの物を並べた机を持たせて奉った。

ときに、皇孫は姉のほうを醜いと思われ、召さずに返された。妹は美人であるとして、召して結婚された。すると、一夜で妊娠した。

そのため、この姉の磐長姫は、大変恥じ恨んでいった。
「もし天孫が私を退ずにお召しになったら、生まれる御子は命が長く、岩のようにいつまでも死なないでしょう。でも、そうではなく、ただ妹一人を召されました。だから、その生む子はきっと木の花のように、散り落ちてしまうことでしょう」
また、磐長姫は恥じ恨んで、唾を吐き呪って泣きながらいった。
「この世に生きている人民は、木の花のようにしばらくで移ろって、衰えてしまうでしょう」
これが、世の人の命がもろいことの由来である。

父の大山祇神が、申し送っていった。
「私の娘を二人並んで奉りましたわけは、磐長姫をお召しになって、天神の御子の命が、雪や雨が降り風が吹いても、つねに岩のように永遠に変わらず、ゆるぎなくいらっしゃるように、また、木花開姫をお召しになって、木の花が咲き栄えるように、ご繁栄になるように、祈誓して奉りました。しかるに磐長姫を返させて、木花開姫ひとりをお留めになりましたから、天神の御子の寿命は、木の花のようにわずかな時間となるでしょう」
そのため、これをもって、今に至るまで天皇がたのご寿命は長久ではなくなったのである。

神吾田鹿葦津姫が、皇孫を見ながら申しあげた。
「私は、天孫の子を身ごもりました。ひそかに産むわけにはまいりません」
皇孫は仰せられた。
「天神の子であるといっても、どうして一夜で孕ませられるだろうか。思うに、お前が身ごもったのは、私の子ではなく、国つ神の子だろう」

神吾田鹿葦津姫は、一夜にして子を宿した。そして、四人の子を生んだ。[ある書には、三人の子という]
竹の刀をつかい、その子のへその緒を切った。それを棄てた所は、竹の刀が後に竹林になった。そのため、その地を名づけて、竹屋という。
このとき神吾田鹿葦津姫は、卜定田(うらへだ)を狭名田(さなだ)と名づけ、その田で収穫した稲をもって、天の甜酒(たんさけ)を醸して、お供えした。また、渟浪田(ぬなた)の稲を使って、飯をたいて、お供えした。

神吾田鹿葦津姫が子を抱いてやってきて申しあげた。
「天神の子を、どうしてひそかに養うべきでしょうか。だから様子を申しあげて、知っていただきます」
このとき天孫は、その子らを見てあざわらって仰せられた。
「なんとまぁ、私の皇子たち、こんなに生まれたとは本当に嬉しいな」

そこで、吾田鹿葦津姫は怒っていった。
「どうして私をあざけりなさるのですか」
天孫は仰せになった。
「心に疑わしく思う。だから、あざけったのだ。なぜなら、いくら天神の子でも、どうして一夜のうちに、人に孕ませることができるのか。絶対にわが子ではない」

神吾田鹿葦津姫は、ますます恨んで、戸の無い大きな御殿を作ってその中にこもり、誓っていった。
「私の孕んだ子が、もし天神の御子でなかったら、必ず焼け滅べ。もし、天神の御子ならば、炎で損なわれることがないでしょう」
そして火をつけて室を焼いた。

その火が初め明るくなったとき、ふみ出して出てきた子は、自ら名のっていった。
「私は天神の子、名前は火明命(ほあかりのみこと)。私の父はどこにおられるのか」
次に火の盛んなときにふみ出して出てきた子は、また名のっていった。
「私は天神の子、名前は火進命(ほすすみのみこと)。私の父と兄はどこにおられるのか」
次に火の衰えるときにふみ出して出てきた子は、また名のっていった。
「私は天神の子、名前は火折命(ほおりのみこと)。私の父と兄たちはどこにおられるか」
次に火熱がひけるときにふみ出して出てきた子はいった。
「私は天神の子、名前は彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)。私の父と兄たちはどこにおられるのか」

その後に、母の吾田鹿葦津姫が、燃え杭の中から出てきて、いった。
「私が生んだ御子と私の身は、みずから火の災いに当たりましたが、少しも損なわれるところがありませんでした。天孫はご覧になられましたか」
天孫は答えて仰せられた。
「私は最初から、これがわが子であると知っていた。ただ一夜で孕んだということを疑う者があると思って、衆人にこれが皆、わが子であると知らせようと思った。あわせて天神はよく一夜で孕ませられることを示そうとしたのだ。また、お前に不思議な勝れた力があり、子らもまた、人に勝れた力があることを明らかにしようと思った。このため、先の日にあざけりの言葉をのべたのだ」

こうして、母の誓いの結果を知ることができた。本当にこの子らが皇孫の御子であると。

豊吾田鹿葦津姫は、皇孫を恨んで言葉を交わさなかった。
皇孫は憂いて歌を詠んでいわれた。

御子、火明命[工造たちの祖]。
次に、火進命[または火闌命(ほすそりのみこと)、または火酢芹命(ほすせりのみこと)という。隼人たちの祖]。
次に、火折命。
次に、彦火々出見尊。


彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)

天孫・天津彦々火瓊々杵尊の第二子で、母は大山祇の娘の木花開姫である。

兄の火酢芹命(ほすせりのみこと)は、よく海の幸を得ることができたので、海幸彦命(うみさちひこのみこと)と呼ばれた。
弟の火折命(ほおりのみこと)は、または火々出見尊という。山の幸を得ることができたので、山幸彦尊(やまさちひこのみこと)と呼ばれた。

兄は風が吹き雨が降るたびにその幸を失った。弟は風が吹き雨が降っても、その幸は変わらなかった。

ときに、兄が弟に語っていった。
「私はためしに、お前と幸を取り替えてみたいと思う」
弟は、承諾して取り替えられた。

兄は弟の弓矢をもって山に入り獣を狩ったが、ついに獣を捉えることができなかった。
弟は兄の釣り針をもって海に行き魚を釣ったが、魚を得ることはできず、ついにはその釣り針を失ってしまった。
どちらも幸を得られずに、空手で帰ってきた。

兄は弟の弓矢を返して、自分の釣り針を返すように求めた。しかし、弟は釣り針を海の中に紛失して、捜し求めるすべがなかった。
そこで、別に新しい釣り針を作って、兄に与えたが、兄は受け取らず、もとの針を返すように責めた。

弟は悩んで、自分の太刀で新しい針を鍛えて、器いっぱいに盛って、これを贈った。兄が怒っていった。
「私はもとの針でなければ、たくさんあるといっても受け取らない」
と、ますますまた責めた。

それで弟の火折尊は憂い苦しむことが深く、海辺に行ってさまよい、たたずみ嘆かれた。
このとき、川雁がいて、罠にかかって苦しんでいた。それをご覧になり、憐れみの心を起こして解き放ってやった。
しばらくして、塩土老翁がやってきて、老翁は尋ねた。
「何のために、こんなところで悲しんでいるのですか」
答えて事の始終を告げると、老翁は申しあげた。
「心配なされるな。私があなたのために、考えてさしあげましょう」
そして袋の中から櫛をとって、地に投げると、それはたくさんの竹林になった。
その竹をとって、目の粗い籠を作った。これをまたは堅間(かたま)という。現在の籠のことである。
そうして火折尊を竹籠の中に入れて、海に沈めた。

また、塩土老翁は申しあげた。
「私が計りごとをしましょう」
計って申しあげた。
「海神の乗る駿馬は、八尋鰐(やひろわに)です。その鰐が背を立てて橘の小戸におります。私が彼とともに、計りましょう」
そうして、火折尊をつれてともに行き、鰐に会った。

鰐が計っていった。
「私は八日の後に、確かに天孫を海神の宮にお送りできます。しかし、わが王の駿馬は、一尋鰐です。これはきっと一日のうちにお送りするでしょう。ですから今、私が帰って彼を来させましょう。彼に乗って、海にお入りください。海に入られたら、海中によい小浜があるでしょう。その浜に沿って進まれたら、きっとわが王の宮につくでしょう。宮の門の井戸の上に、神聖な桂の木があります。その木の上に乗って居られませ」
こう言い終わって、すぐに海中に入って去っていった。

そこで、天孫は、鰐のいったとおりに留まって、八日間待った。
しばらくして、一尋鰐がやってきた。それに乗って、海中に入った。
すると、おのずとちょうどよい小浜の道があり、すべてさきの鰐の教えの従って、道に沿って進んでいくと、ひとりでに海神の宮についた。

その宮は、城門高く飾り、楼閣壮麗だった。
門の前にひとつの井戸があり、井戸の上には神聖な桂の木があって、枝葉がよく茂っていた。
火折尊は、この木の下に行き、跳ね上がってのぼっておられた。
しばらくして、一人の美人があらわれた。井戸の底に笑顔がうつるその容貌は絶世であった。これが、海神の娘の豊玉姫(とよたまひめ)である。
従者を多く従えて中から出てきた。そして従者が玉の壷で井戸の水を汲もうとすると、井戸の中に人影が映っているのを見て、汲みとることができず、上を仰ぐと天孫の姿が見えた。

そのため驚いて扉を開いて戻り、その父王に申しあげた。
「私はわが王だけが、ひとりすぐれて美しいと思っていました。ですが、貴い客人が門の前の井戸のそばの木の上にいて、その姿は並みではなく、海神よりも勝れています。もし天から降れば天のかげがあり、地下から上れば地のかげがあるでしょう。これは本当に妙なる美しさです。虚空彦(そらつひこ)というのでしょうか」

そこで海神豊玉彦(とよたまひこ)は、人を遣わして、尋ねて申しあげた。
「客人はどなたですか。なぜここにおいでになったのですか」
天孫は答えて仰せられた。
「私は天神の孫です」
そうして、おいでになったわけを話された。

海神はこれを聞いて、
「ためしに会ってみよう」
といって、三つの床を設け、何枚もの畳をしいて、迎え拝んで中に引き入れた。
このとき、天孫は入り口の床では両足を拭かれた。次の床では両手を拭われた。内の床では真床覆衾(まとこおうふすま)の上に、ゆったりと座られた。
海神はこれを見て、この方が天神の孫であることを知り、ますます尊敬して懇ろにお仕えした。
そして、たくさんの物を並べた机を用意し、主人としての礼を尽くした。

海神がおもむろに尋ねて申しあげた。
「天孫は、何故かたじけなくもおいでくださいましたか。このころ、わが子が語りますに、天孫が海辺で悲しんでおられるというのですが、本当かどうかわからない、と申しておりました」
天孫は答えて、ことのわけを詳しく話された。

海神は、憐れみの心を起こして、大小の魚をすべて集めて尋ねたが、皆、
「知りません」
といった。
ただ、口女(くちめ)だけが口に病があった。そこでただちに呼びよせて、その口を探ると、紛失した釣り針がすぐに見つかった。
その口女は、すなわち鯔魚(いな)である。また、赤女ともいわれていて、鯛のことである。

海神は命じていった。
「お前口女は、これから餌を食べてはならぬ。また、天孫にすすめる御膳に加わることはできない」
鯔魚を御膳に進めないのは、これがその由来である。

そうして天孫は、海神の娘の豊玉姫を娶られた。
二人は愛情こまやかに過ごされて、海の宮に過ごすこと三年が経った。安らぎ楽しまれてはいたが、やはり故郷を想われる心があった。それで、またひどく嘆かれた。

豊玉姫はこれを聞き、父神にいった。
「ここにいらっしゃる貴人は、上つ国に帰りたいと思っておられます。ひどく悲しんで度々嘆かれるのは、きっと郷土を想って悲しまれるのでしょう」

海神はそこで、天孫におもむろに語って申しあげた。
「今、天神の孫が、かたじけなくも私のところにおいでくださいました。心の中の喜びは、忘れることができません。天孫がもし国に帰りたいと思われるなら、お送り申しあげます」
海神はそうして、釣り針を授け奉った。

潮溢の玉(しおみつのたま:思いのままに潮を満たせる玉)と、潮涸の玉(しおひのたま:潮をひかせる玉)を、この針に添え献じて申しあげた。
「皇孫よ、遠く隔たっても、どうか時々は思い出して、忘れてしまわないようにしてください」
そして教えて申しあげた。
「この針をあなたの兄に返し与えられるときに、“貧乏のもと。飢えのはじめ。苦しみのもと”とおっしゃりなさい。そしてひそかにこの針を呼んで、“お前が生まれる子の末代まで、貧乏の針、滅びの針、おろかの針、うまくいかない針”とおっしゃって、後ろのほうへ投げ捨てて与えなさい。向かいあって授けてはなりません。それから三度唾を吐いてください。
また、あなたの兄が海を渡ろうとするときには、私は必ず疾風を送り波を立てて、兄を溺れさせ苦しめましょう。もし、兄が怒ってあなたを損なおうとするなら、潮溢の玉を出して溺れさせ、苦しんで助けてくれと乞うたら、潮涸の玉を出して救ってください。このように責め悩ませれば、自然と服従するでしょう。
また、兄が海で釣りをするときに、天孫は海辺におられて風招(かざおぎ)をなさい。風招とは、口をすぼめて息を吹き出すことです。そうすると、私は瀛(おき)つ風・辺(へ)つ風を立てて、速い波で溺れさせましょう」

また教えて申しあげた。
「兄が高いところの田を作ったら、あなたはくぼんだ低い田をお作りなさい。兄がくぼんだ田を作ったら、あなたは高いところの田をお作りなさい」
このように、海神は誠実をつくして、火折尊をお助けした。

海神は、鰐を呼び集め、尋ねていった。
「天孫が今お帰りになる。お前達は、何日間のうちにお送りできるか」
たくさんの鰐がそれぞれに、長く、あるいは短かい日数をのべた。中に一尋鰐がいて、みずからいった。
「一日でお送りすることができます」
そこで、一尋鰐に命じてお送りさせた。

天孫は、帰ってきて、海神の教えのとおりに、まずその針を兄に与えられた。兄は怒って受け取らなかった。
そこで、弟は潮溢玉を出すと、潮が大きく満ちてきて、足を浸した。これは足占(あしうら)の意味がある。膝に水が至ったときには、足をあげた。股に至ったときには、走り回った。腰に至ったときには、腰をなで回した。脇に至ったときには、手を胸におき、首に至ったときには手を上げてひらひらさせた。

このため兄は助けを求めて申しあげた。
「私はあなたにお仕えして奴となりましょう。どうかお助けください」
弟の尊が潮涸玉を出すと、潮は自然と引いて、兄はもとに返った。

兄の命が釣りをする日に、弟の尊は浜辺におられて、うそぶきをした。すると、疾風が急に起こり、兄は溺れ苦しんだ。生きられそうもないので遥かに弟の尊に救いを求めていった。
「お前は長い間、海原で暮らしたから、きっと何かよい術を知っているだろう。どうか助けてくれ。もし私を助けてくれたら、私の生む子の末代まで、あなたの住居の垣のあたりを離れず俳優(わざおぎ)の民となろう」

そこで、弟はうそぶくことをやめて、風もまた止んだ。
そのため兄は弟の徳を知り、みずから服従しようとした。しかし、弟の尊は怒って口をきかれなかった。
そこで兄はフンドシをして、土を手のひらに塗って、その弟の尊に申しあげた。
「私はこのとおり身を汚しました。永くあなたのための俳優となりましょう」
そうして足をあげて踏み鳴らし、その溺れ苦しむ様を真似した。

兄の命は、日々にやつれていき、憂いていった。
「私は貧乏になってしまった」
そして弟に降伏した。弟が潮溢玉を出すと、兄の命は手を挙げて溺れ苦しんだ。潮涸玉を出すと、元のようにもどった。

後になると兄の命は、前言をあらためていった。
「私はお前の兄である。どうして人の兄として、弟に仕えることができようか」
弟の尊はそのとき潮溢玉を出した。兄はこれを見て、高い山に逃げ登った。しかし、潮は山を水没させた。兄は高い木に登った。潮はまた、木を水没させた。

兄の命はとても困って、逃げ去るところもなく、罪に伏して申しあげた。
「私は過ちをしました。今後は私の子孫の末まで、あなたの俳人(わざひと)となり、また狗人(いぬひと)となりましょう。どうか哀れんでください」
弟の尊が潮涸玉を出すと、潮は自然と引いた。そこで兄は弟の尊が、神の徳を持っていることを知って、ついにその弟の尊に服従してお仕えした。

このため、兄の命の子孫である諸々の隼人(はやと)たちは、今に至るまで、天皇の宮の垣のそばを離れないで、吠える犬の役をしてお仕えしているのである。
世の人が失った針を催促しないのは、これがその由来である。


これより以前、別れようとするときに、豊玉姫がゆっくりと語って申しあげた。
「私はもう妊娠しています。天孫の御子を遠からず産み奉ります。しかし、どうして海の中に生むことができましょうか。ですから子を生むときには、きっとあなたのもとへ参ります。風波の盛んな日に海辺に出ていきますから、どうか私のために産屋を作って待っていてください」

その後、弟の尊は郷(くに)に帰って、鵜(う)の羽で屋根を葺いて産屋を作った。屋根がまだ葺き終わらないうちに、豊玉姫は大亀に乗り[または龍に乗ったという]、妹の玉依姫をつれ、海を照らしてやって来た。
もう臨月で、子は産まれんばかりだった。そのため葺き終わるのを待たないで、すぐに産屋へ入られた。
静かに天孫に申しあげていった。
「私は今晩、子を生むでしょう。どうかご覧にならないでください」
天孫は、心中そのことばを怪しんで、いわれたことを聞かずに、ひそかに覗き見られた。
すると、姫は八尋の大鰐に変わって、這い回っていた。見られて辱められたのを深く恥じ、恨みを抱いた。

子が生まれてから後に、天孫が行って尋ねられた。
「この子の名前は何とつけたらよいだろう」
豊玉姫は答えて申しあげた。
「彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)と名づけましょう」
このようにいわれたわけは、その海辺の産屋に、鵜の羽を草の代わりにして屋根を葺くのに、まだ葺き終わらないうちに子が生まれられたので名づけたのである。

天孫は、豊玉姫の言葉に従われず、出産を覗き見られた。
豊玉姫は、そのことを大いに恨んでいった。
「私のいうことを聞かないで、私に恥をかかせられました。ですから今後は、私の召使いがあなたの所に行ったら返しなさいますな。あなたの召使いが私のもとに来てもまた返しませんから」
これが、海と陸との相通わないことの由来である。

ついに、真床覆衾(まとこおうふすま)と草で、生まれた御子をつつみ渚に置いてから、豊玉姫命はみずから抱いて海の郷に去った。
また、妹の玉依姫(たまよりひめ)を留めて、抱かせ養育させて去ったともいう。

しばらくして、
「天孫の御子を、海の中においていてはいけない」
といって、玉依姫命に抱かせて送り出した。
天孫は、婦人を召して、乳母(ちおも)および飯噛(いいかみ)、湯坐(ゆひと)とされ、すべて諸々の役目を備えて養育した。ときには、仮に他の女を使って、乳母として皇子を養うこともあった。
これが世の中で乳母をきめて、子を育てることの始まりである。

この後、豊玉姫命は、その子が美しくかわいらしいのを聞いて、憐れみの心がつのり、また帰って育てたいと思った。しかし、義にかなわないので、妹の玉依姫命を遣わして養わせた。
そこで、召されて一児を生んだ。武位起命(たけくらいおきのみこと)である。

はじめ、豊玉姫は別れるときに、恨み言をしきりにいった。
それで天孫は、また会うことのないのを知られて、歌を一首贈られた。
豊玉姫命は、玉依姫命に託して、返歌を奉った。
この贈答の二首を名づけて挙歌(あげうた)という。

彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)は、彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊をお生みになった。
次に、武位起命をお生みになった。大和国造(やまとのくにのみやつこ)らの祖である。

彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊

天孫・彦火々出見尊の第三子である[また火折尊ともいう]。
母を豊玉姫命という。海神の上の娘である。
豊玉姫命の妹の玉依姫命を立てて皇妃とされた。すなわち、海神の下の娘で、鸕鷀草葺不合尊の叔母にあたる。

四人の御子をお生みになった。
子の彦五瀬命(ひこいつせのみこと)[賊の矢にあたって亡くなった]。
次に、稲飯命(いなひのみこと)[海に没して鋤持神となった]。
次に、三毛野命(みけいりぬのみこと)[常世の郷に行かれた]。
次に、磐余彦命(いわれひこのみこと)


磐余彦尊(いわれひこのみこと)

磐余彦尊は、天孫・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)の第四子である。母は玉依姫命(たまよりひめのみこと)といい、海神(わだつみ)の下の娘である。
天孫・磐余彦尊は、生まれながらに賢い人で、気性がしっかりとしておられた。十五歳で太子となられた。
成長されたのち、日向国の吾田邑(あたのむら)の吾平津媛(あびらつひめ)を妃とされた。妃との間に、手研耳命(たぎしみみのみこと)、次に研耳命(きすみみのみこと)がをお生みになった。

四十五歳になられたとき、兄や御子たちに仰せられた。
「昔、高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)と大日孁尊(おおひるめのみこと)が、この葦原の瑞穂国を我が祖先の彦火瓊々杵尊(ひこほのににぎのみこと)に授けられた。そこで瓊々杵尊は天の戸を押し開き、雲路を押し分け先払いを走らせて降臨された。このとき、世は未開で、まだ明るさも十分ではなかった。その暗い中にありながら、正しい道を開き、この西のほとりを治められた。皇室の祖先は神であり、また聖であったので、人々によろこびをもたらし、光をなげかけ、多くの年月を経た。天祖が降臨されてから、百七十九万二千四百七十余年になる。しかし、遠いところの国では、まだ帝王の恵みが及ばず、邑々はそれぞれの長があり村々に長があって、土地に境を設けて相争っている。
ところで、また塩土老翁(しおつちのおじ)に聞くと、“東のほうに良い土地があり、青々とした山が取りまいている。その中へ、天の磐船に乗ってとび降ってきた者がある”という。思うにその土地は、広く統治をおこない、天下を治めるのにふさわしいであろう。きっとこの国の中心だろう。そのとび降ってきた者は、饒速日(にぎはやひ)という者であろうか。そこに行って、都をつくるにかぎる」

諸皇子たちも答えて申しあげた。
「そのとおりです。私たちもそう思うところです。すみやかに実行しましょう」
この年は大歳の甲寅である。

その年の冬十月五日に、天孫は自ら諸皇子・船軍を率いて、東征に向かわれた。

速吸(はやすい)の門においでになると、一人の漁人(あま)がいて、小舟に乗ってやってきた。天孫は、呼び寄せ尋ねて仰せられた。
「お前は誰か」
答えて申しあげた。
「私は国津神で、珍彦(うずひこ)と申します。曲(わだ)の浦で釣りをしており、天神の御子がおいでになると聞いたので、お迎えに参りました」
また、天孫は尋ねて仰せられた。
「私のために、水先案内をするつもりはないか」
珍彦は答えて申しあげた。
「ご案内しましょう」
天孫は命じて、漁人に椎竿(しいさお)の先を差し出し、つかまらせて船の中に引き入れ、水先案内とされた。
そこで、とくに名を賜って椎根津彦(しいねつひこ)とされた。これが倭直部(やまとのあたいら)の始祖である。

進んで、筑紫の莵狭(うさ)に着いた。
すると、莵狭の国造の先祖で、莵狭津彦(うさつひこ)・莵狭津姫という者があった。莵狭の川上に、足一つあがりの宮を造っておもてなしをした。
このときに命じて、莵狭津姫を侍臣の天種子命(あまのたねこのみこと)に娶あわされた。天種子命は、中臣氏(なかとみし)の遠祖である。

十一月九日、天孫は、筑紫国の岡水門(おかのみなと)に着かれた。
十二月二十七日、安芸国に着いて、埃宮(えのみや)においでになった。
乙卯年の春三月六日、吉備国に移られ、行宮(かりみや)を造ってお入りになった。これを、高嶋宮(たかしまのみや)という。三年のうちに船舶をそろえ、兵器や糧食を蓄えて、一挙に天下を平定しようと思われた。

戊午年の春二月十一日、皇軍はついに東に向かった。船はたがいに接するほどであった。
まさに難波碕(なにわのみさき)に到ろうとするとき、速い潮流があって、大変早く着いた。よって、浪速国(なみはやのくに)と名づけた。また浪花(なみはな)ともいう。今、難波というのはなまったものである。

三月三十日、川をさかのぼって、河内国草香邑(くさかのむら)の青雲の白肩津(しらかたのつ)に着いた。

夏四月九日、皇軍は兵をととのえ、龍田に向かった。
その道は狭くけわしくて、人が並んで行くことはできなかった。そこで引き返して、さらに東のほうの胆駒山を越えて内つ国に入ろうとした。

そのときに、長髄彦(ながすねひこ)がそれを聞いていった。
「天神の子たちがやってくるわけは、きっと我が国を奪おうとするのだろう」
そうして、全軍を率いて孔舎衛坂(くさえのさか)で戦った。
流れ矢が当たって、天孫の兄の五瀬命(いつせのみこと)の肘脛(ひじはぎ)に当たった。

皇軍は、進み戦うことが出来なかった。天孫はこれを憂いて、計りごとをめぐらして仰せになった。
「いま、自分は日神の子孫であるのに、日に向かって敵を討つのは天道にさからっている。一度退却して弱そうに見せ、天神地祇をお祀りし、背に太陽を負い、日神の威光をかりて敵に襲いかかるのがよいだろう。そうすれば、刃に血ぬらずして、敵はきっとおのずから敗れるだろう」
皆は申しあげた。
「そのとおりです」
そこで、軍中に告げて仰せられた。
「いったん止まり、ここから進むな」
そして、軍兵を率いて帰られた。敵もあえて後を追わなかった。

草香の津に引き返し、盾をたてて雄たけびをして士気を鼓舞された。それでその津を、改めて盾津(たてづ)と名づけた。今、蓼津(たでつ)というのは、なまったものである。

はじめ、孔舎衛の戦いに、ある人が大きな樹に隠れて、難を免れることができた。
それで、その木を指していった。
「恩は母のようだ」
時の人はこれを聞き、その地を名づけて母木邑といった。
今、“おものき”というのは、なまったものである。

五月八日、軍は茅渟(ちぬ)の山城水門(やまきのみなと)に着いた。
そのころ五瀬命の矢傷がひどく痛んだ。そこで命は剣を撫で、雄たけびして仰せられた。
「残念だ。丈夫(ますらお)が賊に傷つけられて、報復しないまま死ぬとは」
時の人は、よってそこを雄水門(おのみなと)と名づけた。
進軍して、紀伊国の竃山(かまやま)に到り、五瀬命は軍中に亡くなった。よって、竃山に葬った。

六月二十三日、軍は名草邑(なくさのむら)に着いた。
そこで名草戸畔(なくさとべ)という者を誅した。
ついに狭野(さぬ)を越えて、熊野の神邑に至り、天の磐盾に登った。

軍を率いて、だんだんと進んでいった。しかし海の中で急に暴風に遭い、船は波に翻弄されて進まなかった。天孫の兄の稲飯命(いなひのみこと)がなげいて仰せになった。
「ああ、わが先祖は天神であり、母は海神であるのに、どうして私を陸に苦しめ、また海に苦しめるのか」
いい終わって、剣を抜いて海に入り、鋤持神となられた。
もうひとりの兄の三毛入野命(みけいりぬのみこと)もまた恨んで仰せられた。
「わが母と伯母は二人とも海神である。それなのに、どうして波を立てて溺れさすのか」
そして波頭を踏んで、常世の国へおいでになった。


天孫は兄たちを失われてひとり、皇子の手研耳命(たぎしみみのみこと)と、軍を率いて進み、熊野の荒坂の津に着かれた。そこで、丹敷戸畔(にしきとべ)という者を誅された。
そのとき神が毒気を吐いて、軍兵は病みつかれた。このため、皇軍はまた振るわなかった。

するとそこに、熊野の高倉下(たかくらじ)という人がいた。
この人の夜の夢に、天照大神(あまてらすおおみかみ)が武甕雷神(たけみかづちのかみ)に語って仰せになった。
「葦原の中国は、なお乱れ騒がしい。お前がまた行って、討ちなさい」
武甕雷神は答えて申しあげた。
「私が行かなくても、私が国を平らげた剣を降らせたら、国はおのずと平らぎましょう」
天照大神は、
「よろしい」
と仰せられた。

そこで、武甕雷神は、高倉下に語って仰せられた。
「わが剣は、名を韴霊(ふつのみたま)という。今、お前の倉の中に置こう。それを取って天孫に献上しなさい」
高倉下は、
「おお」
といって目が覚めた。

あくる朝、夢の中の教えに従って、倉を開いてみると、果たして落ちてきた剣があり、庫の底板に逆さまにささっていた。それを取って天孫に献じた。

そのときに天孫はよく眠っておられたが、にわかに目覚めて仰せになった。
「自分はどうしてこんなに長く眠ったのだろう」
次いで、毒気に当たっていた兵士たちも、みな目覚めて起き上がった。

皇軍は内つ国に赴こうとした。しかし、山の中は険しくて、行くべき道もなかった。
進みあぐねているとき、夜、夢を見た。
天照大神が天孫に教えて仰せられた。
「私は今、頭八咫烏(やたからす)を遣わすから、これを案内としなさい」
はたして頭八咫烏が大空から飛び降ってきた。天孫は仰せられた。
「この烏のやってくることは、瑞夢にかなっている。偉大なことだ、さかんなことだ。わが先祖の天照大神が、われわれの仕事を助けようとしてくださる」

このときに大伴氏の遠祖の日臣命(ひのおみのみこと)は、大来目を率いて、大軍の将軍として、山を越え路を踏み分けて、烏の導きのままに、仰ぎ見ながら追いかけた。
ついに莵田(うだ)の下県に着いた。よって、その着かれたところを名づけて菟田の穿邑(うがちのむら)という。
そのとき、詔して日臣命をほめて仰せられた。
「お前には忠と勇があり、またよく導いた手柄がある。それでお前の名を改めて、道臣(みちのおみ)としよう」

秋八月二日、兄猾(えうかし)と弟猾(おとうかし)をお呼びになった。この二人は、菟田の県の人々のかしらである。
ところが、兄猾はやって来ず、弟猾だけやって来た。
そして軍門を拝んで申しあげた。
「私の兄の兄猾の悪い計画は、天孫がおいでになると聞いて、兵を起こして襲おうとしています。皇軍の軍勢を眺めると敵しがたいことを恐れて、ひそかに兵を隠して、仮に新宮を造り、御殿の中に仕掛けを設けて、おもてなしをするように見せかけて、事を起こそうとしています。どうか、この謀りごとを知って、よく備えてください」

天孫は、道臣命を遣わして、その悪計を調べさせた。道臣命は詳しく調べて、彼に殺害しようという心があったことを知り、大いに怒って叱責していった。
「卑しいやつめ。お前の造った部屋に、自分で入るがいい」
そして、剣を構え、弓をつがえて中へ追いつめた。
兄猾は、天をあざむいたので、言い逃れすることもできなかった。みずから仕掛けに落ちて圧死した。

その屍を引き出して斬ると、流れる血はくるぶしが没するほどに溢れた。それで、その地を名づけて、菟田の血原(ちはら)という。

弟猾は、たくさんの肉と酒を用意して、皇軍をねぎらいもてなした。天孫は酒肉を兵士たちに分け与え、歌を詠んで仰せられた。

宇陀の 高城に鴫(しぎ)罠張る 我が待つや 鴫は障らず いすくはし 鷹等障り 前妻(こなみ)が 肴乞はさば 立稜麦の 実の無けくを 幾しひゑね 後妻(うわなり)が 肴乞はさば 斎賢木 実の多けくを 幾多ひゑね

宇陀の高城に鴫をとる罠を張って、待っていると鴫がかからず鷹がかかった。これは大猟だ。古女房が獲物をくれといったら、ヤセそばの実のないところをうんとやれ。若女房が獲物をくれといったら、斎賢木のような実の多いところをうんとやれ。

これを来目歌(くめうた)という。いま、楽府でこの歌を歌うときは、手の拡げかたの大小や声の太さ細さの別があります。これは、いにしえの遺法である。

この後、天孫は吉野の地を見たいと思われて、菟田の穿邑から軽装の兵をつれて巡幸された。
吉野に着いたとき、人がいて井戸の中から出てきた。その人は、体が光って尻尾があった。
天孫は、これに尋ねて仰せになった。
「お前は何者か」
答えて申しあげた。
「私は国つ神で、名は井光(いひか)といいます」
これは、吉野の首部(おびとら)の始祖である。

さらに少し進むと、また尾のある人が岩をおしわけて出てきた。
天孫は、
「お前は何者か」
と尋ねられた。
「私は磐排別(いわおしわく)の子です」
と答えて申しあげた。
これは、吉野の国栖部(くずら)の始祖である。

川に沿って西においでになると、また梁を設けて漁をする者があった。
天孫がお尋ねになると、答えて、
「私は苞苴担(にえもつ)の子です」
と申しあげた。
これは、阿太の養鵜部(うかいら)の始祖である。

九月五日、天孫は菟田の高倉山の頂きに登って、国の中を眺められた。
そのころ、国見丘の上に、八十梟師(やそたける)がいた。女坂(めさか)には女軍を置き、男坂(おさか)には男軍を置き、墨坂(すみさか)には熾(おこ)し炭をおいていた。女坂・男坂・墨坂の地名は、これから起きた。
また、兄磯城(えしき)の軍がいて、磐余邑(いわれのむら)に満ちていた。
敵の拠点はみな要害の地である。そのため、道は絶えふさがれて通るべきところがなかった。

天孫はこれを憎まれて、この夜、神に祈って寝られた。
夢に天神が現れて、教えて仰せられた。
「天の香山(かぐやま)の社の土を取って、天の平瓦八十枚をつくり、同じく神聖な瓮をつくり、天神地祇をお祀りしなさい。また、厳粛に行う呪詛をしなさい。このようにすれば、敵は自然と降伏するだろう」
天孫は、夢の教えをつつしみ承り、これを行おうとした。

そのとき、弟猾がまた申しあげた。
「倭の国の磯城邑に、磯城の八十梟師がいます。また高尾張邑(たかおわりのむら)[ある書には高城邑という]に、赤銅(あかがね)の八十梟師がいます。この者たちは、みな天孫にそむき、戦おうとしています。私はひそかに天孫のために憂いております。今、天の香山の赤土をとって天の平瓦をつくり、天神地祇をお祀りください。それから敵を討たれたら、討ちやすいでしょう」
天孫は、やはり夢のお告げは吉兆であると思われた。弟猾の言葉を聞かれて心中喜ばれた。

そこで、椎根津彦(しいねつひこ)に、着古した衣服と蓑笠をつけさせ、老人のかたちにつくり、また弟猾に蓑を着せて、老婆のかたちにつくり、命じていわれた。
「お前たち二人、天の香山に行って、ひそかに頂きの土を取ってきなさい。大業がなるかならぬかは、お前たちで占おう。しっかりやってこい」

このとき敵兵は道を覆い、通ることも難しかった。椎根津彦は神意を占っていった。
「わが君が、よくこの国を定められるものなら、行く道はおのずとひらけ。もしできないのなら、敵がきっと道を塞ぐだろう」
いいおわって、ただちに出かけた。
そのとき敵兵は二人の様子を見て、大いに笑っていった。
「みっともない爺と婆だ」
そうして道をあけて行かせた。
二人は無事に山に着くことができて、土を取って帰った。

天孫は大いに喜び、この土で多くの平瓦や、手抉(たくじり)、厳瓮(いつへ)をつくり、丹生の川上にのぼって、天神地祇を祀られた。
その菟田川の朝原で、ちょうど水沫のようにかたまり着くところがあった。天孫はまた神意を占って、仰せになった。
「私は今、たくさんの平瓦で、水なしで飴を造ろう。もし飴ができれば、きっと武器を使わないで、居ながらに天下を平らげるだろう」
飴づくりをされると、たやすく飴はできた。

また神意を占って仰せになった。
「私は、いま神聖な瓮を、丹生の川に沈めよう。もし魚が大小となく全部酔って流れるのが、ちょうど槙(まき)の葉の浮き流れるようであれば、自分はきっとこの国を平定するだろう。もしそうでなければ、ことを成し遂げられぬだろう」
そして、瓮を川に沈めた。するとその口が下に向いた。しばらくすると、魚はみな浮き上がって、水のまにまに流れながらあえいだ。
椎根津彦はそのありさまを見て報告した。
天孫は、大いに喜ばれて、丹生の川上のたくさんの榊を根こそぎにして、諸神をお祀りされた。このときから祭儀の神聖な瓮が据え置かれるようになった。

道臣命に命じて仰せられた。
「今、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)を、私自身が顕斎しよう。お前を斎主とし、厳媛(いつひめ)の名を与えよう。そこに置いた土瓮を厳瓮(いつへ)とし、また火の名を厳香来雷(いつのかぐつち)とし、水の名を厳罔象女(いつのみつはのめ)、食物の名を厳稲魂女(いつのうかのめ)、薪の名を厳山雷(いつのやまづち)、草の名を厳野椎(いつののづち)とする」

冬十月一日、天孫は、その厳瓮の供物を召し上がられ、兵を整えて出発された。
まず、八十梟師を国見丘で撃って破り、斬られた。
この戦いに天孫は必ず勝とうと思われていた。そこで、次のように歌われた。

神風の 伊勢の海の 大石にや い這ひ廻る 細螺の 吾子よ 吾子よ 細螺の い這ひ廻り 撃ちてし止まむ 撃ちてし止まむ

神風吹く、伊勢の海の大石に這いまわる細螺のように、わが軍勢よ、わが軍勢よ。細螺のように這いまわって、必ず敵を討ち負かしてしまおう。

歌の意は、大きな石をもって国見丘に例えている。

残党はなお多く、その情勢は測ることが難しかった。そこで、ひそかに道臣命に命じて仰せられた。
「お前は大来目部を率いて、大室を忍坂邑(おさかのむら)に造り、盛んに酒宴を催し、敵をさそって討ち取れ」

道臣命はこの密命を受け、室を忍坂に掘り、味方の強者を選んで、敵と同席させた。ひそかにしめし合わせていった。
「酒宴がたけなわになった後、自分は立って歌おう。お前たちはわが声を聞いたら、一斉に敵を斬れ」

みな座について、酒を飲んだ。敵は陰謀のあることも知らず、心のままに酒に酔った。その道臣命は立って歌った。

忍坂の 大室屋に 人多に 入り居りとも 人多に 来入居りとも みつみつし 来目の子等が 頭椎い 石椎い持ち 撃ちてし止まむ

忍坂の大室屋に、人が多勢はいっているが、はいっていても、御稜威を負った来目部の軍勢の頭椎(くぶつち)・石椎(いしつち)で敵を討ち負かそう。

味方の兵は、この歌を聞き、一斉に頭椎の剣を抜いて、敵を皆殺しにした。
皇軍は大いに喜び、天を仰いで笑った。よって歌をよんだ。

今はよ 今はよ ああしやを 今だにも 吾子よ 今だにも 吾子よ

今はもう今はもう、ああしやを、今だけでも今だけでも、わが軍よわが軍よ。

今、来目部が歌って後に大いに笑うのは、これがその由来である。また歌っていった。

夷を 一人 百な人 人は云へども 抵抗ませず

夷を、ひとりで百人にあたる強い兵だと、人はいうけれど、手向かいもせず負けてしまった。

これは皆、密旨をうけて歌ったので、自分勝手にしたことではない。
そのときに天孫が仰せられた。
「戦いに勝って、おごることのないのは良将である。いま、大きな敵はすでに滅んだが、同じように悪い者は、なお十数群いる。その実状はわからない。長く同じところにいて、難に会うまい」
そこを捨てて別のところに移った。


十一月七日、皇軍は大挙して磯城彦(しきひこ)を攻めようとした。
まず、使者を送って兄磯城(えしき)を呼んだ。しかし兄磯城は答えなかった。
さらに頭八咫烏(やたからす)を遣わして呼んだ。そのとき、烏は軍営に行って鳴いていった。
「天神の御子が、お前を呼んでおられる。こずや、こずや」
兄磯城は怒っていった。
「天神が来たと聞いて腹立たしく思っているときに、なんで烏がこんな悪い声で鳴くのか」
そして、弓を構えて射た。烏は逃げ帰った。

次いで、弟磯城(おとしき)の家に行き、鳴いていった。
「天神の御子がお前を呼んでいる。こずや、こずや」
弟磯城はおじてかしこまり、いった。
「私は天神が来られたと聞いて、朝夕畏れかしこまっていました。烏よ、お前がこんなに鳴くのは良いことだ」
そこで、木の葉を編んだ皿八枚に、食べ物を盛ってもてなした。

そして烏に導かれてやってきて、申しあげた。
「わが兄の兄磯城は、天神の御子がおいでになったと聞いて、八十梟師(やそたける)を集めて、武器を整え決戦しようとしています。すみやかに対策すべきです」
天孫は、諸将を集めて仰せられた。
「兄磯城はやはり逆らうつもりらしい。呼びにやっても来ない。どうすべきか」
諸将は申しあげた。
「兄磯城は悪賢い敵です。まず弟磯城を遣わして教えさとし、あわせて兄倉下(えくらじ)・弟倉下(おとくらじ)を遣わして説得させましょう。どうしても従わないならば、それから兵を挙げて臨んでも遅くないでしょう」

そこで、弟磯城を遣わして利害を説かせた。しかし、兄磯城らは、なお愚かな計りごとを守って承服しなかった。
椎根津彦(しいねつひこ)が謀りごとを立てて申しあげた。
「今はまず、女軍(めいくさ)を遣わして、忍坂(おさか)の道から出しましょう。敵はきっと精兵を出してくるでしょう。私は強兵を走らせて、ただちに墨坂(すみさか)を目指し、菟田川(うだがわ)の水をとって、敵兵が起こした炭の火にそそぎ、驚いている間にその不意をつきます。敵は必ず敗れるでしょう」
天孫はその計りごとをほめて、まず女軍を出してごらんになった。敵は大兵が来たと思って、力を尽くして迎え討った。

このあとは、皇軍は攻めれば必ず取り、戦えば必ず勝った。しかし、兵士たちは疲弊しなかったわけではない。そこで、将兵の心を慰めるために歌を作られた。

楯並めて 伊那瑳の山の 木の間ゆも い行き胆らひ 戦へば 我はや飢ぬ 嶋つ鳥 鵜飼が徒 今助けに来ね

楯をならべ、伊那瑳(いなさ)の山の木の間から、敵をじっと見つめて戦ったので、われらは腹がすいた。
鵜飼をする仲間たちよ。いま、助けに来てくれよ。

はたして男軍が墨坂を越え、後方から挟み討ちにして敵を破り、その梟雄(たける)・兄磯城らを斬った。

十二月四日、皇軍はついに長髄彦(ながすねひこ)を討つことになった。
戦いを重ねたが、なかなか勝つことができなかった。
そのとき、急に空が暗くなってきて、雹(ひょう)が降ってきた。そこへ金色の不思議な鵄(とび)が飛んできて、天孫の弓の先にとまった。その鵄は光り輝いて、そのさまは雷光のようだった。
このため、長髄彦の軍勢は、みな眩惑されて力戦できなかった。
長髄彦の長髄というのは、もと邑の名であり、それをとって人名とした。皇軍が鵄の瑞兆を得たことから、時の人はここを鵄邑と名づけた。今、鳥見(とみ)というのはなまったものである。

昔、孔舎衛(くさえ)の戦いで、五瀬命(いつせのみこと)が矢に当たって亡くなられた。天孫はそれ以来、常に憤りを抱いておられた。
この戦いにおいて、仇をとりたいと思われた。そして、歌って仰せられた。

みつみつし 来目の子らが 粟生には 韮一本 其根が本 其ね芽繋ぎて 撃ちて
し止まむ

天孫の御稜威(みいつ)を負った来目部の軍勢が、日頃たがやす粟畑。その中に、くさい韮が一本まじっている。その邪魔な韮の根元から芽までつないで、抜き取るように、敵の軍勢をすっかり討ち破ろう。

また歌って仰せられた。

みつみつし 来目の子らが 垣本に 植ゑし山椒 口びひく 我は忘れず 撃ちてし止まむ

天孫の御稜威を負った来目部の軍勢のその家の垣のもとに植えた山椒(さんしょう)、口に入れるとひりひり辛い。そのような敵の攻撃の手痛さは、今も忘れない。今度こそ必ず討ち破ってやろう。

また兵を放って急迫した。
すべて諸々の御歌を、みな来目歌という。これは、来目部が歌い伝えてきたからである。

ときに、長髄彦は使いを送って、天孫に申しあげた。
「昔、天神の御子がおられて、天の磐船(いわふね)に乗って天降られました。名を櫛玉饒速日尊(くしたまにぎはやひのみこと)と申しあげます。このかたが、わが妹の三炊屋姫(みかしきやひめ)を娶って御子をお生みになりました。御子の名を宇摩志麻治命(うましまちのみこと)と申しあげます。そのため、私は饒速日尊、次いで宇摩志麻治命を君として仕えてきました。
いったい、天神の御子は二人もおられるのですか。どうしてまた、天神の子と名のって、人の土地を奪おうとするのですか。饒速日尊以外に天神の御子がいるなど、聞いたことがありません。私が思うに、あなたは偽者でしょう」
天孫は仰せになった。
「天神の子は多くいる。お前が君とするものが、本当に天神の子ならば、必ずしるしの物があるだろう。それを示しなさい」
長髄彦は、饒速日尊の天の羽羽矢(ははや)一本と、歩靫(かちゆき)を天孫に示した。天孫はご覧になって、
「いつわりではない」
と仰られて、帰って所持の天の羽羽矢一本と、歩靫を長髄彦に示された。

長髄彦は、その天つしるしを見て、ますます恐れを感じた。けれども、兵器の用意はすっかり構えられ、その勢いは途中で止めることはできなかった。
そしてなおも、間違った考えを捨てず、改心の気持ちもなかった。
宇摩志麻治命は、もとより天神が深く恵みを垂れるのは、天孫に対してだけであることを知っていた。また、かの長髄彦は、性質がねじけたところがあり、天神と人とは全く異なるのだということを教えても、分かりそうもないことを見て、伯父である長髄彦を殺害した。
そして、その部下たちを率いて帰順された。

己未年の春の三日、天孫は詔して仰せられた。
「天孫饒速日尊の子の宇摩志麻治命は、伯父の長髄 (※ 以下脱文)

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