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 巻第九 帝皇本紀 

継体天皇

諱は男大迹天皇(おほどのすめらみこと)。またの名を彦太尊は、応神天皇の五世孫で、彦主人王(ひこうしのきみ)の子である。
母を振媛(ふるひめ)という。振媛は垂仁天皇の七世孫である。天皇の父は、振媛が容貌端正ではなはだ美人であることを聞いて、近江国高島郡の三尾の別邸から、使いを遣わして越前国三国の坂中井に迎え、召しいれて妃とされた。そして天皇をお生みになった。
天皇が幼年のうちに、父王は亡くなった。振媛は嘆いていった。
「私はいま、遠く故郷を離れてしまいました。どうやってよく天皇を養いたてまつることができましょうか」
成人された天皇は、人を愛し賢人を敬い、心が広く豊かでいらっしゃった。

武烈天皇は八年冬十二月八日に崩御されたが、もとより男子も女子もなく、跡継が絶えてしまうところであった。
大伴金村大連が皆にはかっていった。
「いま絶えて継嗣がない。天下の人々はどこに心をよせたらよいであろう。古くから今に至るまで、禍はこういうことから起きている。仲哀天皇の五世孫の、倭彦王が丹波国桑田郡にいらっしゃる。試みに兵士を遣わし、御輿をお守りしお迎えして、大王として奉ろう」
大臣・大連らは皆これに従い、計画のごとくお迎えすることになった。
ところが倭彦王は、遥かに迎えに来た兵士を望んで恐れ、顔色を失った。そして山中に逃れて行方がわからなくなってしまった。

元年丁亥の春一月四日、大伴金村大連はまたはかっていった。
「男大迹王は、ひととなりが情け深く親孝行で、皇位を継がれるのに相応しいかたである。ねんごろにお勧め申しあげて、皇統を栄えさせようではないか」
物部麁鹿火大連(もののべのあらかいのおおむらじ)、許勢男人大臣(こせのおひとのおおみ)らは皆いった。
「皇孫を調べ、選んでみると、賢者は確かに男大迹王だけらしい」

六日に臣・連たちを遣わし、しるしを持って御輿を備え、三国にお迎えに行った。
兵士が囲み守り、容儀いかめしく整え、先ばらいして到着すると、男大迹天皇はいつもどおり落ち着いて床几にかけておられた。侍臣を整列させて、すでに天子の風格を具えておられた。しるしをもった使いたちは、これを見てかしこまり、心を傾け、命を捧げて忠誠を尽くすことを願った。
しかし、天皇はこの願いに裏のあることを、なお疑われて、すぐには承知されなかった。
天皇は、たまたま河内馬飼首の荒籠(かわちのうまかいのおびとあらこ)をご存知であった。荒籠は密かに使いを差し上げて、詳しく大臣・大連らがお迎えしようとしている本意をお伝えした。
使いは二日三晩留まっていて、ついに天皇は立たれることになった。そして歎息して仰せられた。
「よかった、馬飼首よ。もしお前が使いを送って知らせてくれることがなかったら、私は天下の笑いものになるところだった。世に“貴賎を論ずることなく、ただその心だけを重んずるべし”というのは、思うに荒籠のようなものをいうのであろう」
皇位につかれてから、厚く荒籠を寵愛された。
十二日に天皇は樟葉宮においでになられた。

二月四日、大伴金村大連はひざまずいて、天子の御しるしである鏡と剣を奉って拝礼した。男大迹天皇は辞退して仰せられた。
「民をわが子として国を治めることは重大な仕事である。自分は才能がなく、天子を称するには力不足である。どうかよく考えて、真の賢者を選んでほしい。自分では到底できないから」
大伴大連は地に伏して固くお願いした。男大迹天皇は西に向かって三度、南に向かって二度、辞譲の礼を繰り返された。大伴大連らは皆願い申しあげた。
「臣らが伏して計るに、大王は民をわが子同様に思って国を治められる、最も適任のかたです。私達は国家のため、思い図ることを決しておろそかに致しません。どうか多数の者の願いをお聞き入れください」
男大迹天皇は仰せになった。
「大臣・大連・将相・諸臣すべてが私を推すのであれば、私も背くわけにはいかない」
そして天子の御しるしを受けられて天皇に即位された。また、皇妃を尊んで皇大夫人媛とされた。

十日、大伴大連が奏請して申しあげた。
「臣が聞くところでは、古来の王が世を治められるのに、確かな皇太子がおられないと、天下をよく治めることができず、睦まじい皇妃がないと、よい子孫を得る事ができない、といいます。その通り清寧天皇は、跡継がなかったので、私の祖父の大伴大連室屋を遣わせて、国ごとに三種の白髪部を置かせ、ご自分の名を後世に残そうとされました。何といたましいことではありませんか。どうか手白香皇女を召して皇后とし、神祇伯らを遣わして、天神地祇をお祭りし、天皇の御子が得られるようにお祈りして、人民の望みに答えてください」
天皇は「よろしい」と仰せられた。

三月一日、詔して仰せられた。
「天神地祇を祀るには神主がなくてはならず、天下を治めるには君主がなくてはならない。天は人民を生み、元首を立てて人民を助け養わせ、その生を全うさせる。大連は朕に子の無いことを心配し、国家のために世々忠誠を尽している。単に朕の世だけのことではない。礼儀を整えて手白香皇女をお迎えせよ」
甲子の日、手白香皇女を立てて皇后とし、後宮に関することを修められた。
そして皇后との間に、一人の男子をお生みになった。天国排開広庭尊(あまくにおしはららきひろにわのみこと:欽明天皇)である。この方が嫡子であるが、まだ幼かったので、二人の兄が国政を執られた後に、天下を治められた。二人の兄とは、兄が広国排武金日尊(ひろくにおしたけかなひのみこと:安閑天皇)、次が武小広国押盾尊(たけおひろくにおしたてのみこと:宣化天皇)である。

十四日、八人の妃を後宮に召し入れられた。それぞれの妃に前後があるが、この日に入れられるのは、即位をされ良い日を占い選んで、はじめて後宮に定められたので、文をつくったのである。他も皆これにならっている。

初めの妃、尾張連草香(おわりのむらじくさか)の娘を目子媛(めのこひめ)という。二人の子を生んだ。兄を勾大兄皇子(まがりのおおえのみこ)で、広国排武金日尊と申しあげる。次を檜隈高田皇子(ひのくまのたかたのみこ)で、武小広国押盾尊と申しあげる。
次の妃、三尾角折君(みおのつのおりのきみ)の妹を稚子媛(わかこひめ)といい、一男一女を生んだ。大郎皇子(おおいらつこのみこ)と出雲皇女(いずものひめみこ)である。
次の妃に、坂田大跨王(さかたのおおまたのきみ)の娘の広媛(ひろひめ)は、三女を生んだ。神前皇女(かむさきのひめみこ)、茨田皇女(まむたのひめみこ)、馬来田皇女(うまくたのひめみこ)である。
次の妃、息長真手王(おきながのまてのきみ)の娘の麻積娘子(おみのいたつめ)は、一女を生んだ。荳角皇女(ささげのひめみこ)である。皇女は伊勢大神を斎き祀った。
次の妃、茨田連小望(まむたのむらじこもち)の娘を関媛(せきひめ)といい、三女を生んだ。茨田大娘皇女(まむたのおおいらつめのひめみこ)、白坂活日姫皇女(しらさかのいくひひめのひめみこ)、小野稚娘皇女(おののわかいらつめのひめみこ)である。
次の妃、三尾君堅拭(みおのきみかたひ)の娘を倭媛(やまとひめ)といい、二男二女を生んだ。大娘子皇女(おおいらつめのひめみこ)、椀子皇子(まろこのみこ)、耳皇子(みみのみこ)、赤姫皇女(あかひめのひめみこ)である。
次の妃、和珥臣河内(わにのおみかわち)の娘を荑媛(はえひめ)といい、一男二女を生んだ。稚綾姫皇女(わかやひめのひめみこ)、円皇女(つぶらのひめみこ)、厚皇子(あつのみこ)である。
次の妃、根王の娘の広媛は、二男を生んだ。兄が菟皇子(うさぎのみこ)、次が中皇子(なかつみこ)である。

二年の冬十月三日に、武烈天皇を傍丘磐坏丘陵に葬った。
五年の冬十月、都を山背に遷し、筒城宮といった。
八年の春一月、勾大兄皇子に命じていわれた。
「春宮にいて、朕を助けて仁愛を施し、政事を補え」
二十八年春二月、天皇の病は重く、磐余玉穂宮で崩御された。年八十二歳。
冬十二月五日に、藍野陵に葬った。

天皇がお生みになった御子は八男十二女。
皇子女の名は上の文に明らかなので、さらにまた記すことはしない。
兄に勾大兄広国排武金日尊。次に檜隈高田武小広国押盾尊。次に荳角皇女。皇女は伊勢大神を斎き祀った。


安閑天皇

諱は広国押武金日尊。継体天皇の長子である。
母を目子媛といい、尾張連草香の娘である。
天皇の人となりは幼少のころから器量すぐれ、はかることができないほどであった。いつまでも奢らず寛大で、人君としてふさわしい人柄であった。
先の天皇の治世二十五年の春二月七日に、継体天皇は大兄を立てて天皇とされた。その日に継体天皇は崩御された。

治世元年甲寅の春正月に、都を倭の勾に遷した。金橋宮という。
三月六日、役人に命じて、即位された。
春日山田皇女をむかえて皇后とされた。皇后のまたの御名は山田赤見皇女。仁賢天皇の皇女である。
別に三人の妃を立てた。許勢男人大臣の娘の紗手媛(さてひめ)。紗手媛の妹の香香有媛(かかりひめ)。物部木蓮子大連の娘の宅媛(やかひめ)である。

二年の冬十二月十七日に、天皇は、勾金橋宮で崩御された[年七十歳]。
この月、天皇を河内の古市高屋丘陵(ふるいちのたかやのおかのみささぎ)に葬った。皇后春日山田皇女と、天皇の妹の神前皇女も、この陵に合葬した。

天皇に御子はいらっしゃらない。

宣化天皇

諱は武小広国押盾尊。継体天皇の第二子で、安閑天皇の同母弟である。
二年十二月、安閑天皇は崩御されたが、跡継がなかった。
群臣達が奏上して、神器の鏡剣を武小広国押盾尊に奉った。
治世元年丁巳に即位され、天皇の元年とされた。
天皇のひととなりは、清らかで心がすっきりとしていらっしゃった。才智で人に対して驕り王者ぶる顔をされることがなく、君子らしい方であった。

二年の春正月に、都を檜隈(ひのくま)に遷し、廬入宮(いおりのみや)といった。
三月一日、役人たちは皇后を立てていただきたいと申しあげた。
それに答え詔して仰せられた。
「以前からの正妃の、仁賢天皇の娘・仲皇女を立てて皇后としたい」
皇后は一男三女をお生みになった。長女を石姫皇女(いしひめのひめみこ)。次を小石姫皇女(こいしひめのひめみこ)。次を稚綾姫皇女(わかやのひめみこ)。次を上殖葉皇子(かみつうえはのみこ)といい、またの名を椀子(まろこ)といった。
前からの庶妃の大河内稚子姫(おおしこうちのわくこひめ)は、火焔皇子(ほのおのみこ)を生んだ。

三年の春二月十日、天皇は廬入宮で崩御された[年七十三歳]。
冬十一月十七日、天皇を大倭国の身狭の桃花鳥坂上陵(つきさかのうえのみささぎ)に葬った。皇后の橘仲皇女と、その孺子をこの陵に合葬した。孺子は成人せずに亡くなったものか。

天皇がお生みになったのは二男三女。
長女を石姫皇女。次に小石姫皇女。次に稚綾姫皇女。次に上殖葉皇子、またの名を椀子[丹比・椎田君の祖]。次に火焔皇子[偉那君(いなのきみ)の祖]。


欽明天皇

諱は天国排開広庭尊。継体天皇の嫡子である。
母を手白香皇后といい、清寧天皇の皇女である。
父の天皇は、この皇子を可愛がって常にそばに置かれた。

まだ幼少のとき、夢に人が現れて申しあげた。
「天皇(欽明)が秦大津父(はたのおおつち)という者を寵愛されれば、壮年になって必ず天下を治められるでしょう」
夢がさめて、驚いて使いを遣わし、広く探されたら山背国紀伊郡の深草里にその人を見つけた。名前は果たして見られた夢のとおりであった。珍しい夢であると喜ばれ、大津父に告げて仰せられた。
「お前に何か思い当たることはあるか」
答えて申しあげた。
「特に変わったこともございません。ただ、私が伊勢に商いに行き、帰るとき、山の中で二頭の狼が咬み合って、血まみれになっているのに出会いました。そこで馬をおりて、手を洗い口をすすいで祈請し、“あなた方は恐れ多い神であるのに、荒々しい行いを好まれます。もし猟師に出会えば、たちまち捕らえられてしまうでしょう”といいました。そして咬み合うのをおしとどめて、血にぬれた毛を拭き、洗って逃がし、命を助けてやりました」
天皇は仰せられた。
「きっとこの報いだろう」
そうして大津父を近くに侍らせて、手厚く遇された。大津父は大いに富を重ねることになったので、皇位につかれてからは、大蔵卿に任じられた。

宣化天皇の治世四年冬十月、先の天皇は崩御された。
天国排開広庭皇子尊は、群臣に命じて仰せられた。
「自分は年若く知識も浅くて、政事に通じない。山田皇后は政務に明るく慣れておられるから、皇后に政務の決裁をお願いしなさい」
山田皇后は恐れかしこまって辞退され申しあげられた。
「私は山や海も及ばぬほどの恩寵をこうむっております。様々な政事の難しいことは、婦女の預かれるところではありません。今、皇子は老人を敬い、幼少の者を慈しみ、賢者を尊んで、日の高く昇るまで食事もとらず、士(ひと)をお待ちになります。また幼いときから抜きんでてすぐれ、声望をほしいままにし、人となりは寛容で、あわれみ深くいらっしゃいます。諸臣よ、早く天下に光を輝かせていただくようにお願いしなさい」

治世元年己未の冬十二月五日に、皇太子は即位された。
先の皇后を尊んで皇太后と申しあげ、皇太后を尊んで太皇太后の号を贈られた。
物部尾輿連公(もののべのおこしのむらじきみ)を大連にし、物部目連公(もののべのめのむらじきみ)を大臣とされた。

二年春一月十五日、役人たちは皇后を立てるようにとお願いした。天皇は詔して仰せられた。
「前からの正妃である宣化天皇の娘の石姫を立てて皇后としよう」
皇后は二男一女をお生みになった。長子を箭田珠勝大兄皇子(やたのたまかつのおおえのみこ)といい、次を訳語田渟中倉太珠敷尊(おさたのぬなくらのふとたましきのみこと)といった。一番下を笠縫皇女(かさぬいのひめみこ)といい、またの名を狭田毛皇女(さたけのひめみこ)という。

秋七月十四日、都を磯城に遷し、金刺宮(かなさしのみや)といった。

三年の春二月、五人の妃を召し入れられた。
前からの妃で皇后の妹を、稚綾姫皇女(わかあやひめのひめみこ)といい、一男を生んだ。石上皇子(いそのかみのみこ)である。
次の妃で皇后の妹を、日影皇女(ひかげのひめみこ)という。倉皇子(くらのみこ)を生んだ。
次の妃、堅塩姫(きたしひめ)は七男六女を生んだ。蘇我大臣稲目宿祢の娘である。第一を大兄皇子といい、橘豊日尊(たちばなのとよひのみこと)という。第二を磐隈皇女(いわくまのひめみこ)といい、またの名は夢皇女(ゆめのひめみこ)である[はじめは天照大神を祀り仕え、後に茨木皇子と通じて任を解かれた]。第三を臘嘴鳥皇子(あとりのみこ)という。第四を豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと)という。第五を椀子皇子(まろこのみこ)という。第六を大宅皇女(おおやけのひめみこ)という。第七を石上部皇子(いそのかみべのみこ)という。第八を山背皇子(やましろのみこ)という。第九を大伴皇女(おおとものひめみこ)という。第十を桜井皇子(さくらいのみこ)という。第十一を肩野皇女(かたののひめみこ)という。第十二を橘本稚皇子(たちばなのもとのわかのみこ)という。第十三を舎人皇女(とねりのひめみこ)という。
次の妃で堅塩姫の同母妹である小姉君(おあねのきみ)は、四男一女を生んだ。第一を茨木皇子(うまらきのみこ)という。第二を葛城皇子(かずらきのみこ)という。第三を泥部穴穂部皇子(はしひとのあなほべのみこ)という。第四を泥部穴穂皇女(はしひとのあなほのひめみこ)という。第五を泊瀬部皇子(はつせべのみこ)という。

十五年の春一月七日、渟名倉太珠敷尊を立てて皇太子とされた。
三十二年の夏四月十五日に、天皇は病に臥せられた。皇太子は他に赴いて不在だったので、駅馬を走らせて呼び寄せた。大殿に引き入れて、その手を取り、詔して仰せられた。
「自分は重病である。後のことをお前にゆだねる。お前は新羅を討って、任那を封じ建てよ。またかつてのように両者が夫婦のような間柄になるなら、死んでも思い残すことはない」
天皇はついに大殿で崩御された。時に年は若干。
五月、河内の古市に殯した。九月、檜隈坂合陵(ひのくまのさかいのみささぎ)に葬った。

天皇のお生みになった皇子女は二十三人で、うち男子が十五人、女子が八人である。


敏達天皇

諱は渟中倉太珠敷尊。欽明天皇の第二子である。母を石姫皇后といい、宣化天皇の皇女である。
天皇は仏法を信じられず、文学や史学を好まれた。欽明天皇の治世二十九年、立って皇太子となられた。三十二年四月に、欽明天皇は崩御された。

治世元年夏四月三日、皇太子は即位された。先の皇后を尊んで皇太后といい、皇太后には太皇太后の号を贈られた。物部大市御狩連公(もののべのおおいちのみかりのむらじきみ)を大連とされた。

四年春一月九日、広姫(ひろひめ)を立てて皇后とされた。皇后は一男二女をお生みになった。第一が押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとおおえのみこ)、またの名を麻呂子皇子(まろこのみこ)。第二を逆登皇女(さかのぼりのみこ)といい、第三を莵道磯津貝皇女(うじのしつかいのひめみこ)という。
次に、春日臣仲君(かすがのおみなかつきみ)の娘の老女子(おみなこ)を立てて夫人とされた。三男一女を生んだ。第一を難波皇子(なにわのみこ)といい、第二を春日皇子(かすがのみこ)といい、第三を桑田皇女(くわたのひめみこ)といい、第四を大派皇子(おおまたのみこ)という。
次に采女で、伊勢大鹿首小熊(いせのおおかのおびとおぐま)の娘を莵名子(うなこ)夫人という。二女を生んだ。姉を大娘皇女(おおいらつめのひめみこ)、またの名を桜井皇女(さくらいのひめみこ)といい、妹を糠手姫皇女(ぬかてひめのひめみこ)、またの名を田村皇女(たむらのひめみこ)という。
この年、卜部に命じて、海部王(あまべのきみ)の家地と糸井王(いといのきみ)の家地を占わせたら結果は吉と出た。そこで、宮を沢語田(おさだ)に造り、幸玉宮(さきたまのみや)といった。

五年春三月十日、役人が皇后を立てるように申しあげた。そこで詔して、豊御食炊屋姫尊を立てて皇后とされた。皇后は二男五女をお生みになった。第一を莵道貝鮹皇女(うじのかいたこのひめみこ)といい、東宮・聖徳太子尊の妃となった。第二は竹田皇子(たけだのみこ)。第三を小墾田皇女(おはりだのひめみこ)といい、彦人大兄王に嫁いだ。第四は鸕鷀守皇女(うもりのひめみこ)、またの名を軽守皇女(かるもりのひめみこ)。第五を尾張皇子(おわりのみこ)という。

十四年秋八月十五日、天皇は大殿で崩御された。よって葬殯(もがり)をした。

天皇がお生みになった皇子女は十五人で、男子が八人、女子が七人である。


用明天皇

諱は橘豊日尊(たちばなのとよひのみこと)。欽明天皇の第四子である。母は皇后の堅塩媛という。
天皇は仏法を信じられ、神道を尊ばれた。先の天皇の治世十四年秋八月、敏達天皇が崩御された。九月五日に、天皇は即位された。磐余の地に都を造り、池辺双槻宮(いけのへのなみつきのみや)といった。物部弓削守屋連公(もののべのゆげのもりやのむらじきみ)を大連とされ、また大臣とされた。

治世元年丙午の春一月一日、穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)を立てて皇后とされた。皇后は四人の男子をお生みになった。
第一を厩戸皇子(うまやとのみこ)、またの名を豊聡耳聖徳皇子(とよとみみのしょうとくのみこ)、あるいは豊聡耳法大王(とよとみみののりのおおきみ)という。あるいは法主王(のりのうしのきみ)。この皇子ははじめ、上宮にお住みになった。のち斑鳩(いかるが)に移られた。
推古天皇の御世に皇太子となられ、すべての政務を統括されて天皇の政事を行われたことは、推古天皇の記に見える。
第二を来目皇子(くめのみこ)という。三番目を殖栗皇子(えぐりのみこ)という。第四を茨田皇子(まんだのみこ)という。
蘇我大臣稲目宿祢(そがのいなめすくね)の娘の石寸名(いしきな)を嬪とされた。嬪は一男を生んだ。田目皇子(ためのみこ)、またの名を豊浦皇子(とゆらのみこ)である。
葛城直磐村(かずらきのあたいいわむら)の娘の広子(ひろこ)は、一男一女を生んだ。男子を麻呂子皇子(まろこのみこ)という。当麻公の祖である。女子は酢香手皇女(すかてのひめみこ)という。

二年夏四月二日、磐余の河上で、新嘗の祭りが行われた。この日、天皇は病にかかられて宮中に帰られた。群臣がおそばに侍った。天皇は群臣に詔して仰せられた。
「私は仏法僧の三宝に帰依したいと思う。卿らにこのことを考えてほしい」
群臣は参内して相談した。物部守屋大連と中臣勝海連(なかとみのかつみのむらじ)は勅命の会議で反対していった。
「どうして国の神に背いて、他の神を敬うのか。もとより、このようなことは聞いたことがない」
蘇我馬子宿祢大臣はいった。
「詔に従って、お助けすべきである。誰がそれ以外の相談をすることがあろうか」

九日、天皇は大殿で崩御された。
秋七月二十一日、磐余池上陵(いわれのいけのえのみささぎ)に葬った。

天皇のお生みになった皇子女は七人。男子が六人で女子が一人である。

崇峻天皇

諱は泊瀬部天皇(はつせべのすめらみこと)。欽明天皇の第十二子である。母を小姉君(おあねのきみ)といい、稲目宿祢の娘である。
先の天皇の治世二年夏四月九日、用明天皇は崩御された。この時、穴穂部皇子らが謀反をおこした。
秋八月癸卯朔甲辰の日、炊屋姫尊と群臣が天皇に勧めて、即位の礼を行った。
この月に倉梯(くらはし)に宮殿を造った。

治世元年春三月、大伴糠手連(おおとものあらてのむらじ)の娘・小手子(こてこ)を立てて妃とされた。妃は一男一女を生んだ。蜂子皇子(はちこのみこ)と錦代皇女(にしきでのひめみこ)である。
四年夏四月十三日、敏達天皇を磯長陵に葬った。これは、その母の皇后の葬られていた陵である。

五年冬十月四日、猪が献上されることがあった。天皇は猪を指して仰せになった。
「いつの日にか、この猪の首を斬るように、自分が嫌いに思う人を斬りたいものだ」
多くの武器を集めることが、いつもと違っていることがあった。大伴嬪・小手子は天皇の寵愛の衰えたことを恨み、人を蘇我馬子宿祢に使いを出して告げた。
「この頃、猪が献じられることありました。天皇は猪を指差して、“猪の首を斬るように、いつの日にか、自分の思っているあの人を斬りたい”といわれました。また、内裏に多くの武器を集めておられます」
馬子宿祢は、それを聞いて驚いたという。
十日に、蘇我馬子宿祢は、天皇が仰せになったという言葉を聞いて、自分を嫌っておられることを恐れ、一族の者を招集して、天皇を弑することを謀った。
十一月三日、馬子宿祢は群臣をあざむいていった。
「今日、東国から調が献上されてくる」
そして東漢直駒を使って、天皇を弑したてまつった。
この日、天皇を倉梯岳陵に葬った。


推古天皇

諱は豊御食炊屋姫天皇(とよみけかしきやひめのすめらみこと)は、欽明天皇の娘で、用明天皇の同母妹である。幼少のときは額田部皇女と申しあげた。容姿端麗で立ち居ふるまいにもあやまちがなかった。

十八歳のとき、敏達天皇の皇后となられた。三十四歳のとき、敏達天皇が崩御された。三十九歳の崇峻天皇五年十一月、天皇は大臣馬子宿祢(うまこのすくね)のために弑され、皇位が空いた。
群臣は敏達天皇の皇后である額田部皇女に、皇位を嗣がれるように請うたが、皇后は辞退された。百官が上奏文をたてまつって、なおもおすすめしたので、三度目になって、ついに従われた。そこで皇位の印である神器をたてまつって、冬十二月八日に、皇后は豊浦宮(とゆらのみや)で即位された。

治世元年の夏四月十日、厩戸豊聡耳皇子(うまやとのとよとみみのみこ)を立てて皇太子とされ、摂政として国政をすべて任せられた。
太子は用明天皇の第二子で、母の皇后を穴穂部間人皇女と申しあげる。母の皇后はご出産予定日に、禁中を巡察して諸官司をご覧になっていたが、馬司のところにおいでになったとき、厩の戸にあたられた拍子に、難なく出産された。太子は生まれながらにものをいわれ、聖人のような知恵をお持ちであった。成人してからは、一度に十人の訴えをお聞きになっても、誤られることなく、先の事までよく見通された。また、仏法を高麗の僧・慧慈(えじ)に習い、儒教の経典を覚(かくか)博士に学ばれた。そしてことごとくそれをお極めになった。
父の天皇が可愛がられて、宮殿の南の上宮(かみつみや)に住まわせられた。そこでその名をたたえて、上宮厩戸豊聡耳太子と申しあげる。

秋九月、用明天皇を河内磯長陵(かわちのしながのみささぎ)に改葬した。

二年の春三月一日、皇太子と大臣に詔して、仏教の興隆を図られた。このとき、多くの臣・連たちは主君や親の恩に報いるため、きそって仏舎を造った。これを寺という。

九年春二月、皇太子ははじめて宮を斑鳩(いかるが)に建てられた。

十一年十二月五日、はじめて冠位十二階を制定した。それぞれ適当な位が定められた。
十二年の春一月一日に、はじめて冠位を諸臣に賜り、それぞれ位づけされた。
夏四月三日、皇太子はみずから十七条憲法を作られた。

十三年冬十月に皇太子は斑鳩宮に移られた。

十五年秋七月三日、大礼小野臣妹子(おののおみいもこ)を大唐に遣わした。鞍作福利(くらつくりのふくり)を通訳とした。これが、唐の国に遣使する始めである。
十六年夏四月、小野妹子は大唐の国から帰国した。唐では妹子臣を名づけて、蘇因高(そいんこう)と呼んだ。
大唐の使者・裴世清(はいせいせい)と下客十二人が妹子臣に従って筑紫についたと別の書にある。

秋九月十一日、唐からの客人・裴世清は帰ることになった。そこでまた大仁小野妹子臣を大使とし、小仁吉志雄成(きしのおなり)を小使とし、小礼福利を通訳として随行させた。
物部鎌姫大刀自連公(もののべのかまひめのおおとじのむらじきみ)を参政とした。
十七年秋九月、小野妹子らは大唐から戻った。

二十年春二月二十日、皇太夫人堅塩媛(きたしひめ)を檜隈大陵(ひのくまのおおみささぎ)に改葬した。
この日、軽の街中で誄(しのびごと)をたてまつった。第一に阿部内臣鳥(あべのうちのおみとり)が天皇のお言葉を読みたてまつり霊に物をお供えした。お供えした物は祭器、喪服の類いが一万五千種もあった。第二に諸皇子が序列に従ってそれぞれ誄され、第三に中臣宮地連烏摩侶(なかとみのみやところのむらじおまろ)が大臣の言葉を誄した。第四に馬子大臣が多数の支族らを率いて、境部臣摩利勢(さかいべのおみまりせ)に氏姓のもとについて誄を述べさせた。
時の人は、「摩利勢、鳥摩侶の二人はよく誄を述べたが、鳥臣だけはよく誄をすることができなかった」といった。

二十二年夏六月十三日、大仁矢田部御嬬連公(やたべのみつまのむらじきみ)に詔して、姓を改め造とした。そうして大唐への使いに遣わした。また、大礼犬上君御田鍬(いぬがみのきみみたすき)を小使として遣わした。
物部恵佐古連公(もののべのえさこのむらじきみ)を大連とした。
二十三年秋九月、矢田部造御嬬、犬上御田鍬らが大唐から戻った。

二十七年冬三日、太子が定めて仰せられた。
「君に仕えることに忠を尽くす臣を探せば、まさに両親を愛しむ子と同じである。なぜなら、父は天であり、天に従うことを孝という。また、君は日であり、君に従うことを忠という。その后は月であり、また母である。ゆえにこれに従うのは臣といい、また親に従うことをいう。孝経に“忠臣を求めるならば、必ず孝行息子のいる家にいる”という。これは孝の道から至る。
幸福は流れ落ちる泉のようであり、この理は春雨が万物を成長させるようなものである。もし、この道に逆らえば大禍をうけ、福を減じることは塩を水の中に捨てるようなものである。
すべてこのようなことを道という。
別にこれを名づけて八義という。いわゆる八義とは、孝・悌・忠・仁・礼・義・智・信を指す。また、天地・日・月・星辰・聖・賢・神・祇は、人倫が重んじるものである。それこそが寿称・官爵・福徳・栄楽である。
貧しい人生にとって貴いものは、孝道をいくことである。栄祥を格し、礼儀を勤めて身を立てる者である。これゆえ、八義になぞらえて、爵位を定める。
孝は天であり、紫冠を第一とする。
忠は日であり、錦冠を第二とする。
仁は月であり、繍冠を第三とする。
悌は星であり、纏冠を第四とする。
義は辰であり、緋冠を第五とする。
礼は聖であり、深緑を第六とする。
智は賢であり、浅緑を第七とする。
信は神であり、深縹を第八とする。
祇は祇であり、浅縹を第九とする。
地は母であり、よって立身と名づけて、黄冠を第十とする。
今より後、永く常の法とせよ」

二十八年春二月十一日、上宮厩戸豊聡耳皇太子命と大臣蘇我馬子宿祢は、詔を受けたまわって、代々の古事である、天皇紀および国記、臣・連・伴造・国造および多くの部民公民らの本紀を撰録した。

春三月一日、定めて仰せられた。
「君后に対して不忠をする者、また父母に対して不孝をする者について、もし声を上げずこれを隠す者は、同じくその罪を担い重く刑法を科す」

二十九年春二月五日、夜半に、皇太子上宮厩戸豊聡耳尊は斑鳩宮で薨去された。
このとき、諸王・諸臣および天下の人民は皆、老いた者は愛児を失ったように悲しみ、塩や酢の味さえも分からないほどであった。若い者は慈父を失ったように、泣き悲しむ声がちまたに溢れた。農夫は耕すことも止め、稲つき女は杵音もさせなかった。皆がいった。
「日も月も光も失い、天地も崩れたようなものだ。これから誰を頼みにしたらいいのだろう」

この月、皇太子を磯長陵に葬った。ときに高麗の僧・慧慈は、上宮の皇太子が亡くなったことを聞き、大いに悲しみ、太子のために僧を集めて斎会を催した。そしてみずから経を説く日に誓願していった。
「日本の国に聖人がおられました。上宮豊聡耳皇子と申しあげます。天からすぐれた資質を授かり、大きな聖の徳をもって日本の国にお生まれになりました。中国の三代の聖王をも越えるほどの、大きな仕事をされ、三宝をつつしみ敬って、人民の苦しみを救われました。真の大聖です。その太子が亡くなられました。自分は国を異にするとはいえ、太子との心の絆を断つことは出来ません。自分一人生き残っても何の益もありません。
来年の二月五日には、自分もきっと死ぬでしょう。上宮太子に浄土でお会いして、共に衆生に仏の教えを広めたいと思います」
そして、慧慈は定めた日に丁度死んだ。これを見て、時の人は誰もが「ひとり上宮太子だけが聖人でなく、慧慈もまた聖人である」といった。

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