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 巻第五 天孫本紀 

天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあまのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)
またの名を天火明命、またの名を天照国照彦天火明尊、または饒速日命という。またの名を胆杵磯丹杵穂命(いきいそにきほのみこと)

天照孁貴(あまてらすひるめむち)の太子・正哉吾勝々速日天押穂耳尊(まさかあかつかちはやひあまのおしほみみのみこと)は、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)の娘の万幡豊秋津師姫栲幡千々姫命(よろずはたとよあきつしひめたくはたちぢひめのみこと)を妃として、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊をお生みになった。
天照太神と高皇産霊尊の、両方のご子孫としてお生まれになった。そのため、天孫といい、また皇孫という。

天神の御祖神は、天璽瑞宝(あまつしるしのみずたから)十種を饒速日尊にお授けになった。
そうしてこの尊は、天神の御祖先神のご命令で、天の磐船に乗り、河内国の川上の哮峰(いかるがのみね)に天降った。さらに、大倭(やまと)国の鳥見(とみ)の白庭山へ遷った。
天降ったときの随従の装いについては、天神本紀に明らかにしてある。
いわゆる、天の磐船に乗り、大虚空(おおぞら)をかけめぐり、この地をめぐり見て天降られ、“虚空(そら)見つ日本(やまと)の国”といわれるのは、このことである。

饒速日尊は長髓彦(ながすねひこ)の妹の御炊屋姫(みかしきやひめ)を娶り妃として、宇摩志麻治命(うましまちのみこと)をお生みになった。

これより以前、妊娠してまだ子が生まれていないときに、饒速日尊は妻へ仰せられた。
「お前がはらんでいる子が、もし男子であれば味間見命(うましまみのみこと)と名づけなさい。もし女子であれば色麻弥命(しこまみのみこと)と名づけなさい」
産まれたのは男子だったので、味間見命と名づけた。

饒速日尊が亡くなり、まだ遺体が天にのぼっていないとき、高皇産霊尊が速飄神(はやかぜのかみ)にご命令して仰せられた。
「我が御子である饒速日尊を、葦原の中国に遣わした。しかし、疑わしく思うところがある。お前は天降って調べ、報告するように」
速飄命は天降って、饒速日尊が亡くなっているのを見た。そこで天に帰りのぼって復命した。
「神の御子は、すでに亡くなっています」
高皇産霊尊はあわれと思われて、速飄命を遣わし、饒速日尊の遺体を天にのぼらせ、七日七夜葬儀の遊楽をし悲しまれ、天上で葬った。

饒速日尊は、妻の御炊屋姫に夢の中で教えて仰せになった。
「お前の子は、私のように形見のものとしなさい」
そうして、天璽瑞宝を授けた。また、天の羽羽弓・羽羽矢、また神衣・帯・手貫の三つのものを登美の白庭邑に埋葬して、これを墓とした。

天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊は、天道日女命を妃として、天上で天香語山命(あまのかごやまのみこと)をお生みになった。
天降って、御炊屋姫を妃として、宇摩志麻治命をお生みになった。


饒速日尊の子の天香語山命(あまのかごやまのみこと)。[天降って後の名を手栗彦命(たぐりひこのみこと)、または高倉下命(たかくらじのみこと)という]。この命は、父の天孫の尊に随従して天から降り、紀伊国の熊野邑にいらっしゃった。

天孫・天饒石国饒石天津彦々火瓊々杵尊の孫の磐余彦尊(いわれひこのみこと)が、西の宮から出発して、みずから船軍を率いて東征されたたとき、ご命令にそむくものが蜂のように起こり、いまだ服従しなかった。中つ国の豪雄・長髓彦(ながすねひこ)は、兵をととのえて磐余彦尊の軍をふせいだ。天孫(磐余彦)の軍はしきりに戦ったけれども、勝つことができなかった。

先に紀伊国の熊野邑に至ったとき、悪神が毒気をはき、人々はみな病んだ。天孫はこれに困惑したが、よい方法がなかった。
高倉下命はこの邑にいて、夜中に夢をみた。

天照大神が武甕槌神(たけみかづちのかみ)へ仰せになった。
「葦原の瑞穂国は、聞くところによるとなお騒がしいという。お前は出かけていって、これを討ちなさい」
武甕槌神は答えて申しあげた。
「私が出向かずとも、私が国を平らげたときの剣を下したならば、自然に平定されるでしょう」
そうして高倉下命に語っていった。
「我が剣の韴霊の剣を、いまお前の家の庫(くら)の内に置いておく。それをとって、天孫に献上するように」

高倉下命は、このように夢をみて、「おお」といって目が覚めた。翌日、庫を開けてみると、はたして剣があって庫の底板に逆さまに立っていた。そこで、それをとって天孫に献じた。
そのとき天孫はよく眠っておられたが、にわかに目覚めていわれた。
「私はどうしてこんなに長く眠っていたのか」
ついで毒気に当たっていた兵士達も、みな目覚めて起きあがった。
皇軍は中つ国に赴いた。天孫は神剣を得て、日に日に威光と軍の勢いが増した。
高倉下に詔して褒め、侍臣とした。


天香語山命(あまのかごやまのみこと)は、異腹の妹の穂屋姫(ほやひめ)を妻として、一男をお生みになった。

饒速日尊の孫・天村雲命(あまのむらくものみこと)[またの名を天五多手(あまのいたて)]。
この命は、阿俾良依姫(あひらよりひめ)を妻として、二男一女をお生みになった。

三世孫・天忍人命(あまのおしひとのみこと)
この命は異腹の妹の角屋姫(つぬやひめ)、またの名は葛木(かずらき)の出石姫(いずしひめ)を妻として、二男をお生みになった。
次に天忍男命(あまのおしおのみこと)
この命は葛木の国つ神・剣根命(つるぎねのみこと)の娘・賀奈良知姫(がならちひめ)を妻として、二男一女をお生みになった。
妹に忍日女命(おしひひめのみこと)

四世孫・瀛津世襲命(おきつよそのみこと)[または葛木彦命(かずらきひこのみこと)という。尾張連らの祖である]。天忍男命の子。
この命は孝昭朝の御世、大連となってお仕えした。
次に建額赤命(たけぬかあかのみこと)
この命は葛城の尾治置姫(おわりのおきひめ)を妻として、一男を生みました。
妹に世襲足姫命(よそたらしひめのみこと)[またの名を日置日女命(ひおきひめのみこと)]。
この命は、腋上池心宮に天下を治められた孝昭天皇(観松彦香殖稲天皇:みまつひこかえしねのすめらみこと)の皇后となり、二人の皇子をお生みになった。すなわち、天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひとのみこと)と、次に孝安天皇(日本足彦国押人天皇:やまとたらしひこくにおしひとのすめらみこと)がこれである。

同じく四世孫・天戸目命(あまのとめのみこと)。天忍人命の子である。
この命は葛木の避姫(さくひめ)を妻として二男をお生みになった。
次に天忍男命(あまのおしおのみこと)
大蝮壬生連(おおたじひみぶべのむらじ)らの祖である。

五世孫・建箇草命(たけつつくさのみこと)
[建額赤命の子。多治比連(たじひのむらじ)、津守連(つもりのむらじ)、若倭部連(わかやまとべのむらじ)、葛木厨直(かずらきのみくりやのむらじ)の祖である]。

同じく五世孫・建斗米命(たけとめのみこと)。天戸目命の子である。
この命は、紀伊国造の智名曽(ちなそ)の妹の中名草姫(なかつなくさひめ)を妻として、六男一女をお生みになった。
次に妙斗米命(たえとめのみこと)
六人部連(むとりべのむらじ)らの祖である。

六世孫・建田背命(たけたせのみこと)
神服連(かむはとりのむらじ)、海部直(あまべのあたい)、丹波国造(たにはのくにのみやつこ)、但馬国造(たじまのくにのみやつこ)らの祖である。
次に建宇那比命(たけうなひのみこと)
この命は、城嶋連(しきしまのむらじ)の祖の節名草姫(ふしなくさひめ)を妻として、二男一女をお生みになった。
次に建多乎利命(たけたおりのみこと)
笛吹連(ふえふきのむらじ)、若犬甘連(わかいぬかいのむらじ)らの祖である。
次に建弥阿久良命(たけみあぐらのみこと)
[高屋大分国造(たかやおおきたのくにのみやつこ)らの祖である]。
次に建麻利尼命(たけまりねのみこと)
[石作連(いしつくりのむらじ)、桑内連(くわうちのむらじ)、山辺県主(やまのべのあがたぬし)らの祖である]。
次に建手和迩命(たけたわにのみこと)
[身人部連(むとべのむらじ)らの祖である]。
妹に宇那比姫命(うなひひめのみこと)

七世孫・建諸偶命(たけもろずみのみこと)
この命は、腋上池心宮で天下を治められた孝昭天皇の御世に、大臣となってお仕えした。葛木直の祖の大諸見足尼(おおもろみのすくね)の娘の諸見己姫(もろみこひめ)を妻として、一男をお生みになった。
妹に大海姫命(おおあまひめのみこと)[またの名は葛木高名姫命(かずらきのたかなひめのみこと)]。
この命は、磯城瑞垣宮で天下を治められた崇神天皇の皇妃となり、一男二女をお生みになった。すなわち、八坂入彦命(やさかいりひこのみこと)、次に渟中城入姫命(ぬなきいりひめのみこと)、次に十市瓊入姫命(とおちにいりひめのみこと)がこれである。

八世孫・倭得玉彦命(やまとえたまひこのみこと)[または市大稲日命(いちのおおいなひのみこと)という]。
この命は、淡海国の谷上刀婢(たにかみとべ)を妻として、一男をお生みになった。また、伊我臣の祖・大伊賀彦(おおいがひこ)の娘の大伊賀姫(おおいがひめ)を妻として、四男をお生みになった。

九世孫・弟彦命(おとひこのみこと)
妹に日女命(ひめのみこと)
次に玉勝山代根古命(たまかつやましろねこのみこと)
[山代水主の雀部連(さざきべのむらじ)、軽部造(かるべのみやつこ)、蘇&博(そがべのおびと)らの祖である]。
次に若都保命(わかつほのみこと)
[五百木部連(いおきべのむらじ)の祖である]。
次に置部与曽命(おきべよそのみこと)
次に彦与曽命(ひこよそのみこと)

十世孫・淡夜別命(あわやわけのみこと)
[大海部直(おおあまべのあたい)らの祖。弟彦命の子である]。

次に大原足尼命(おおはらのすくねのみこと)
[筑紫豊国(つくしのとよのくに)の国造らの祖で。置津与曽命の子である]。

次に大八椅命(おおやつきのみこと)
[甲斐国造らの祖。彦与曽命の子である]。
次に大縫命(おおぬいのみこと)
次に小縫命(おぬいのみこと)

十一世孫・乎止与命(おとよのみこと)
この命は、尾張大印岐(おわりのおおいみき)の娘の真敷刀俾(ましきとべ)を妻として、一男をお生みになった。

十二世孫・建稲種命(たけいなだねのみこと)
この命は、迩波県君(にわのあがたのきみ)の祖・大荒田(おおあらた)の娘の玉姫(たまひめ)を妻として、二男四女をお生みになった。

十三世孫・尾綱根命(おづなねのみこと)
この命は、応神天皇の御世に大臣となってお仕えした。
妹に尾綱真若刀婢命(おづなまわかとべのみこと)
この命は、五百城入彦命(いおきいりひこのみこと)に嫁いで、品陀真若王(ほむだまわかのきみ)をお生みになった。
次の妹に金田屋野姫命(かなだやぬひめのみこと)
この命は、甥の品陀真若王に嫁いで、三人の王女をお生みになった。すなわち、高城入姫命(たかきいりひめのみこと)、次に仲姫命(なかひめのみこと)、次に弟姫命(おとひめのみこと)である。

この三王女は、応神天皇のもとへ共に后妃になり、合わせて十三人の皇子女をお生みになった。
姉の高城入姫命は皇妃となり、三人の皇子をお生みになった。額田部大中彦皇子(ぬかたべのおおなかひこのみこ)、次に大山守皇子(おおやまもりのみこ)、次に去来真稚皇子(いざまわかのみこ)
妹の仲姫命は皇后となり、二男一女の御子をお生みになった。荒田皇女(あらたのひめみこ)、次に仁徳天皇(大雀天皇:おおさざきのすめらみこと)、次に根鳥皇子(ねとりのみこ)
妹の弟姫命は皇妃となり、五人の皇女をお生みになった。阿倍皇女(あべのひめみこ)、次に淡路三原皇女(あわぢのみはらのひめみこ)、次に菟野皇女(うののひめみこ)、次に大原皇女(おおはらのひめみこ)、次に滋原皇女(しげはらのひめみこ)

応神天皇(品太天皇:ほむだのすめらみこと)の御世に、尾治連(おわりのむらじ)の姓を賜り、大臣大連となった。
天皇は、尾綱根連に詔していわれた。
「お前の一族から生まれた十三人の皇子達は、お前が愛情を持って養い仕えなさい」
このとき尾綱根連は、とても喜んで、自分の子の稚彦連(わかひこのむらじ)と、従兄妹の毛良姫(けらひめ)の二人を壬生部の管理者に定めてお仕えさせることにした。そして、ただちに皇子達のお世話をする人を三人奉った。
連の名は請。もうひとりの連の名は談である。二人の字の辰技中から、今この民部の三人の子孫を考えると、現在は伊与国にいる云々という。

十四世孫・尾治弟彦連(おわりのおとひこのむらじ)
次に尾治名根連(なねのむらじ)
次に意乎巳連(おおみのむらじ)
この連は、仁徳朝の御世に大臣となってお仕えした。

十五世孫・尾治金連(かねのむらじ)
次に尾治岐閉連(きへのむらじ)
[即連(つくのむらじ)らの祖である]。
次に尾治知々古連(ちちこのむらじ)
[久努連(くぬのむらじ)の祖である]。
この連は、履中朝(去来穂別朝)の御世に功能の臣としてお仕えした。

十六世孫・尾治坂合連(さかあいのむらじ)。金連の子である。
この連は、允恭天皇の御世に寵臣としてお仕えした。
次に尾治古利連(こりのむらじ)
次に尾治阿古連(あこのむらじ)
[太刀西連(おおとせのむらじ)らの祖である]。
次に尾治中天連(なかぞらのむらじ)
次に尾治多々村連(たたむらのむらじ)
次に尾治弟鹿連(おとかのむらじ)
[日村(ひむら)の尾治連らの祖である]。
次に尾治多与志連(たよしのむらじ)
[大海部直らの祖である]。

十七世孫・尾治佐迷連(さめのむらじ)。坂合連の子である。
妹に尾治兄日女連(えひめのむらじ)

十八世孫・尾治乙訓与止連(おとくによどのむらじ)。佐迷連の子である。
次に尾治粟原連(あわはらのむらじ)
次に尾治間古連(まふりのむらじ)
次に尾治枚夫連(ひらふのむらじ)
紀伊尾張連らの祖である。


天香語山命の弟、宇摩志麻治命(うましまちのみこと)
または味間見命(うましまみのみこと)といい、または可美真手命(うましまでのみこと)という。

天孫天津彦火瓊々杵尊の孫の磐余彦尊は、天下を治めようと思われて、軍をおこして東征されたが、所々にご命令に逆らう者たちが蜂のように起こり、従わなかった。
中つ国の豪族・長髄彦は、饒速日尊の子の宇摩志麻治命を推戴し、主君として仕えていた。天孫の東征に際しては、
「天神の御子が二人もいる訳がない。私は他にいることなど知らない」
といい、ついに兵をととのえてこれを防ぎ、戦った。天孫の軍は連戦したが、勝つ事ができなかった。

このとき、宇摩志麻治命は伯父の謀りごとには従わず、戻ってきたところを誅殺した。そうして衆を率いて帰順した。

天孫は、宇摩志麻治命に仰せになった。
「長髄彦は性質が狂っている。兵の勢いは勇猛であり、敵として戦えども勝つ事は難しかった。しかるに伯父の謀りごとによらず、軍を率いて帰順したので、ついに官軍は勝利する事ができた。私はその忠節を喜ぶ」

そして特にほめたたえ、神剣を与えることで、その大きな勲功にお応えになった。
この神剣は、韴霊(ふつのみたま)剣、またの名は布都主神魂(ふつぬしのかむたま)の刀、または佐士布都(さじふつ)といい、または建布都(たけふつ)といい、または豊布都(とよふつ)の神というのがこれである。

また、宇摩志麻治命は、天神が饒速日尊にお授けになった天璽瑞宝(あまつしるしのみずたから)十種を天孫に献上した。天孫はたいへん喜ばれて、さらに寵愛を増された。
また、宇摩志麻治命は、天物部(あまのもののべ)を率いて荒ぶる逆賊を斬り、また、軍を率いて国内を平定して復命した。

天孫磐余彦尊は、役人に命じてはじめて宮殿を造られた。
辛酉年の一月一日に、磐余彦尊は橿原宮(かしはらのみや)に都を造り、はじめて皇位につかれた。この年を、天皇の治世元年とする。皇妃の姫蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)を立てて皇后とした。皇后は、大三輪の神の娘である。

宇摩志麻治命がまず天の瑞宝をたてまつり、また、神盾を立てて斎き祭った。五十櫛という、または斎木を、布都主剣のまわりに刺し巡らして、大神を宮殿の内に奉斎した。
そうして、天つしるしの瑞宝を納めて、天皇のために鎮め祀った。
このとき、天皇の寵愛は特に大きく、詔していわれた。
「殿内の近くに侍りなさい」 (近く殿の内に宿せよ 〈すくせよ〉)
そのためこれを足尼(すくね)と名づけた。足尼という号は、ここから始まった。

高皇産霊尊の子の天富命(あまのとみのみこと)は、諸々の斎部を率い、天つしるしの鏡と剣を捧げて、正殿に安置した。
天児屋命の子の天種子命(あまのたねこのみこと)は、神代の古事や天神の寿詞を申しあげた。
宇摩志麻治命は内物部を率いて、矛・盾を立てて厳かでいかめしい様子をつくった。
道臣命(みちのおみのみこと)は来目部を率いて、杖を帯びて門の開閉をつかさどり、宮門の護衛を行った。
それから、四方の国々に天皇の位の貴さと、天下の民に従わせることで朝廷の重要なことを伝えられた。

ときに、皇子・大夫たちは、臣・連・伴造・国造を率いて、賀正の朝拝をした。
このように都を建てて即位され、年の初めに儀式をするのは、共にこのときから始まった。

宇摩志麻治命は十一月一日の庚寅の日に、はじめて瑞宝を斎き祀り、天皇と皇后のために奉り、御魂を鎮め祭って御命の幸福たることを祈った。鎮魂(たまふり)の祭祀はこのときに始まった。
天皇は宇摩志麻治命に詔して仰せられた。
「お前の亡父の饒速日尊が天から授けられてきた天璽瑞宝をこの鎮めとし、毎年仲冬の中寅の日を例祭とする儀式を行い、永遠に鎮めの祭りとせよ」
いわゆる“御鎮祭”がこれである。

およそ、その御鎮祭の日に、猿女君らが神楽をつかさどり言挙げして、
「一・二・三・四・五・六・七・八・九・十」
と大きな声でいって、神楽を歌い舞うことが、瑞宝に関係するというのはこのことをいう。

治世二年春二月二日、天皇は論功行賞を行われた。宇摩志麻治命に詔して仰せられた。
「お前の勲功は思えば大いなる功である。公の忠節は思えば至忠である。このため、先に神剣を授けて類いない勲功を崇め、報いた。いま、股肱の職に副えて、永く二つとないよしみを伝えよう。今より後、子々孫々代々にわたって、必ずこの職を継ぎ、永遠に鑑とするように」

この日、物部連らの祖・宇摩志麻治命と、大神君(おおみわのきみ)の祖・天日方奇日方命(あまひかたくしひかたのみこと)は、ともに食国の政事を行う大夫に任じられた。
その天日方奇日方命は、皇后の兄である。食国の政事を行う大夫とは、今でいう大連・大臣にあたる。

そうして宇摩志麻治命は、天つしるしの瑞宝を斎き祀り、天皇の長寿と幸せを祈り、また布都御魂の霊剣をあがめて国家を治め護った。このことを子孫も受け継いで、石上の大神をお祀りした。
詳しくは以下に述べる。


饒速日尊の子・宇摩志麻治命。
この命は、橿原宮(かしはらのみや)で天下を治められた神武天皇の御世の、はじめに足尼(すくね)になり、ついで食国の政事を行う大夫となって、大神をお祀りした。活目邑(いくめむら)の五十呉桃(いくるみ)の娘・師長姫(しながひめ)を妻として、二人の子をお生みになった。

饒速日尊の孫・味饒田命(うましにぎたのみこと)
阿刀連(あとのむらじ)らの祖である。
弟に、彦湯支命(ひこゆきのみこと)[またの名は木開足尼(きさきのすくね)]。
この命は、葛城高丘宮(かずらきのたかおかのみや)で天下を治められた綏靖天皇の御世の、はじめに足尼になり、ついで寵を得て食国の政事を行う大夫となって、大神をお祀りした。日下部(くさかべ)の馬津(うまつ)・名は久流久美(くるくみ)の娘の阿野姫(あぬひめ)を妻として一男を生み、出雲色多利姫(いずものしこたりひめ)を妾として一男を生み、淡海川枯姫(おうみのかわかれひめ)を妾として一男をお生みになった。

三世孫・大祢命(おおねのみこと)[彦湯支命の子である]。
この命は、片塩浮穴宮(かたしおのうきあなのみや)で天下を治められた安寧天皇の御世に、侍臣となって、大神をお祀りした。
弟に、出雲醜大臣命(いずものしこおおみのみこと)
この命は、軽の地の曲峡宮(まがりおのみや)で天下を治められた懿徳天皇の御世の、はじめは食国の政事を行う大夫となり、ついで大臣となって、大神をお祀りした。その大臣という号は、このとき初めて起こった。倭(やまと)の志紀彦(しきひこ)の妹・真鳥姫(まとりひめ)を妻として、三人の子をお生みになった。
弟に、出石心大臣命(いずしこころのおおみのみこと)
この命は、掖上池心宮(わきかみのいけこころのみや)で天下を治められた孝昭天皇の御世に、大臣となって、大神をお祀りした。新河小楯姫(にいかわのおたてひめ)を妻として、二人の子をお生みになった。

四世孫・大木食命(おおきけのみこと)
[三河国造の祖で、出雲醜大臣の子である]。
弟に、六見宿祢命(むつみのすくねのみこと)
[小治田連(おはりだのむらじ)らの祖である]。
弟に、三見宿祢命(みつみのすくねのみこと)
[漆部連(ぬりべのむらじ)らの祖である]。この命は、秋津嶋宮(あきつしまのみや)で天下を治められた孝安天皇の御世に、共に天皇のおそば近くに仕えたため、はじめは足尼となり、ついで宿祢(すくね)となって、大神をお祀りした。その宿祢の号は、このとき初めて起こった。

同じく四世の子孫・大水口宿祢命(おおみなくちのすくねのみこと)
穂積臣(ほずみのおみ)、采女臣(うねめのおみ)らの祖で、出石心命の子である。
弟に、大矢口宿祢命(おおやくちのすくねのみこと)
この命は、盧戸宮(いおどのみや)で天下を治められた孝霊天皇の御世に、並んで宿祢となって、大神をお祀りした。坂戸由良都姫(さかとのゆらつひめ)を妻として、四人の子をお生みになった。

五世孫・欝色雄命(うつしこおのみこと)
この命は、軽境原宮(かるのさかいばらのみや)で天下を治められた孝元天皇の御世に、拝命して大臣となり、大神をお祀りした。活馬長砂彦(いこまのながさひこ)の妹の芹田真若姫(せりたのまわかひめ)を妻として、一人の子をお生みになった。
妹に、欝色謎命(うつしこめのみこと)
この命は、孝元天皇の皇后となり、三人の皇子をお生みになった。すなわち、大彦命(おおひこのみこと)、つぎに春日宮で天下を治められた開化天皇、つぎに倭迹迹姫命(やまととひめのみこと)がこれである。
開化天皇は、皇后を尊んで皇太后とし、磯城瑞籬宮(しきのみずがきみや)で天下を治められた崇神天皇は、皇太后を尊んで太皇大后とされた。
弟に、大綜杵命(おおへそきのみこと)
この命は、孝元天皇の御世に大祢となり、春日率川宮で天下を治められた開化天皇の御世に大臣となった。そうして皇后と大臣は、大神をお祀りした。大綜杵命は高屋阿波良姫(たかやのあわらひめ)と妻として、二人の子をお生みになった。
弟に、大峯大尼命(おおみねのおおねのみこと)
この命は、開化天皇の御世に、大尼となって奉仕した。その大尼がお仕えする起源は、このとき初めて起こった。

六世孫・武建大尼命(たけたつおおねのみこと)。欝色雄大臣の子である。
この命は、大峯大尼命と同じく開化天皇の御世に、大尼となってお仕えした。

同じく六世の子孫・伊香色謎命(いかがしこめのみこと)。大綜杵大臣の子である。
この命は、孝元天皇の御世に皇妃となり、彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)をお生みになった。孝元天皇が崩ぜられた後、開化天皇は庶母の伊香色謎命を立てて皇后とし、皇子をお生みになった。すなわち、崇神天皇である。
崇神天皇は、伊香色謎命を尊んで皇太后とされた。纏向に天下を治められた垂仁天皇の御世に追号して、太皇大后を贈られた。

弟に、伊香色雄命(いかがしこおのみこと)
この命は、開化天皇の御世に、大臣となった。崇神天皇の御世、この大臣に詔して、神に捧げる物を分かたせ、天社(あまつやしろ)・国社(くにつやしろ)を定めて、物部が作った神祭りの供物で八十万の神々を祀った。
このとき、布都大神(ふつのおおかみ)の社を、大倭国山辺郡石上邑に遷して建てた。天の祖神が饒速日尊に授けられた天つしるしの瑞宝も、同じく共に収めて、石上大神と申しあげた。
これをもって、国家のために、また物部氏の氏神として、崇め祀り、鎮めとした。
そこで、伊香色謎皇后と伊香色雄大臣は石上神宮をお祀りした。
伊香色雄命は、山代県主(やましろのあがたぬし)の祖・長溝(ながみぞ)の娘の真木姫(まきひめ)を妻として、二人の子をお生みになった。また、山代県主の祖・長溝の娘の荒姫(あらひめ)と、その妹の玉手姫(たまてひめ)を共に妾として、それぞれ二男をお生みになった。また、倭志紀彦の娘の真鳥姫を妾として、一男をお生みになった。

七世孫・建胆心大祢命(たけいこころのおおねのみこと)
この命は、崇神天皇の御世に、はじめて大祢となりお仕えした。
弟に、多弁宿祢命(たべのすくねのみこと)
[宇治部連(うじべのむらじ)、交野連(かたののむらじ)らの祖である]。この命は、同じ天皇の御世に宿祢となってお仕えした。
弟に、安毛建美命(やすけたけみのみこと)
六人部連(むとりべのむらじ)らの祖である。この命は、同じ天皇の御世に侍臣となってお仕えした。
弟に、大新河命(おおにいかわのみこと)
この命は、纏向珠城宮(まきむくのたまきみや)で天下を治められた垂仁天皇の御世、はじめに大臣となり、ついで物部連公(もののべのむらじのきみ)の姓を賜った。そのため、改めて大連となって、神宮をお祀りした。大連の号は、このとき初めて起こった。
紀伊の荒川戸俾(あらかわとべ)の娘の中日女(なかひめ)を妻として、四男をお生みになった。
弟に、十市根命(とおちねのみこと)
この命は、垂仁天皇の御世に、物部連公の姓を賜った。はじめ五大夫の一人となり、ついで大連となって、神宮をお祀りした。

この物部十市根大連に、天皇は詔して仰せになった。
「たびたび使者を出雲国に遣わして、その国の神宝を検めさせたが、はっきりとした報告をする者がいない。お前がみずから出雲国に行って、調べて来なさい」
そこで十市根大連は、神宝をよく調べてはっきりと報告した。このため、神宝のことを掌らされることになった。
同じ天皇の御世に、五十瓊敷入彦皇子命(いにしきいりひこのみこのみこと)は河内国の幸(さい)の河上宮(かわかみみや)で、剣一千口を作らせられた。これを名づけて、赤花の伴(あかはなのとも)といい、または裸伴(あかはだかのとも)の剣という。現在は納めて石上神宮にある神宝である。
この後、五十瓊敷入彦皇子に詔して、石上神宮の神宝を掌らせられた。
同じ天皇の御世の治世八十七年を経たとき、五十瓊敷入彦皇子が、妹の大中姫命(おおなかひめのみこと)に語って仰せられた。
「私は老いたから、神宝を掌ることができない。これからはお前がやりなさい」
大中姫命は辞退して仰せられた。
「私はかよわい女です。どうしてよく神宝を収める高い神庫に登れましょうか」
五十瓊敷入彦命はいわれた。
「神庫が高いといっても、私が神庫用に梯子を作るから、登るのが難しいことはない」
ことわざにもいう“天の神庫は樹梯(はしだて)のままに”というのは、このことが元である。
その後、ついに大中姫命は物部十市根大連に授けて、石上の神宝を治めさせた。物部氏が石上の神宝を掌るのは、これがその起源である。

十市根命は、物部武諸隅連公(もののべのたけもろずみのむらじのきみ)の娘の時姫を妻として、五男をお生みになった。
弟に、建新川命(たけにいかわのみこと)
[倭の志紀県主(しきのあがたぬし)らの祖である]。
弟に、大燈z命(おおめふのみこと)
[若湯坐連(わかゆえのむらじ)らの祖である]。
この二人の命は、同じ垂仁天皇の御世、共に侍臣となってお仕えした。


八世孫・物部武諸隅連公(もののべのたけもろずみのむらじきみ)。新河大連(にいかわのおおむらじ)の子である。
崇神天皇の治世六十年、天皇は群臣に詔して仰せられた。
「武日照命(たけひなでりのみこと)が天から持ってきた神宝が、出雲大神の宮に収めてある。これを見たい」
そこで、矢田部造(やたべのみやつこ)の遠祖の武諸隅命を遣わして、はっきりと調査させて復命申しあげさせた。
武諸隅命は大連となって、石上神宮をお祀りした。物部胆咋宿祢(もののべのいくいのすくね)の娘の清姫(きよひめ)を妻として、一男をお生みになった。
弟に、物部大小市連公(もののべのおおおちのむらじきみ)
[小市直(おちのあたい)の祖である]。
弟に、物部大小木連公(もののべのおおおきのむらじきみ)
[佐夜部直(さやべのあたい)、久奴直(くぬのあたい)らの祖である]。
弟に、物部大母隅連公(もののべのおおもろずみのむらじきみ)
[矢集連(やつめのむらじ)らの祖である]。
以上の三人の連公は、志賀高穴穂宮(しがのたかあなほのみや)で天下を治められた成務天皇の御世に、並んで侍臣となってお仕えした。

同じく八世孫・物部胆咋宿祢(もののべのいくいのすくね)。十市根大連(とおちねのおおむらじ)の子である。
この宿祢は、成務天皇の御世に、はじめ大臣となり、石上神宮をお祀りした。その宿祢の官号は、このときはじめて起こった。
市師宿祢(いちしのすくね)の祖の穴太足尼(あなほのすくね)の娘・比東テ命(ひめこのみこと)を妻として、三人の子をお生みになった。
また、阿努建部君(あとのたけべのきみ)の祖・太玉(ふとたま)の娘・鴨姫(かもひめ)を妾として、一人の子をお生みになった。
また、三川穂国造(みかわのほのくにのみやつこ)の美己止直(みことのあたい)の妹・伊佐姫(いさひめ)を妾として、一人の子をお生みになった。
また、宇太笠間連(うだのかさまのむらじ)の祖の大幹命(おおとものみこと)の娘・止己呂姫(ところひめ)を妾として、一人の子をお生みになった。
弟に、物部止志奈連公(もののべのとしなのむらじきみ)
杭田連(くいだのむらじ)らの祖である。
弟に、物部片堅石連公(もののべのかたがたしのむらじきみ)
駿河国造(するがのくにのみやつこ)らの祖である。
弟に、物部印岐美連公(もののべのいきみのむらじきみ)
志紀県主(しきのあがたぬし)、遠江国造(とおつうみのくにのみやつこ)、久努直(くぬのあたい)、佐夜直(さやのあたい)らの祖である。
弟に、物部金弓連公(もののべのかなゆみのむらじきみ)
田井連(たいのむらじ)、佐比連(さひのむらじ)らの祖である。
以上の四人の連公は、同じく成務天皇の御世に、共に侍臣となってお仕えした。

九世孫・物部多遅麻連公(もののべのたじまのむらじきみ)。武諸隅大連の子である。
この連公は、纏向日代宮(まきむくのひしろのみや)で天下を治められた景行天皇の御世に、拝命して大連となり、石上神宮をお祀りした。物部五十琴彦連公(もののべのいことひこのむらじきみ)の娘の安媛(やすひめ)を妻として、五人の子をお生みになった。

物部五十琴宿祢連公(もののべのいことのすくねのむらじきみ)。胆咋宿祢の子である。
この連公は、磐余稚桜宮(いわれのわかさくらのみや)で天下を治められた神功皇后摂政の御世の、はじめ大連となり、ついで宿祢となって、石上神宮をお祀りした。
物部多遅麻大連の娘の香児媛(かこひめ)を妻として、三人の子をお生みになった。
妹に、物部五十琴姫命(もののべのいことひめのみこと)
この命は、景行天皇御世に皇妃となり、一人の子をお生みになった。すなわち、五十功彦命(いごとひこのみこと)である。
弟に、物部五十琴彦連公(もののべのいことひこのむらじきみ)
この連公は、物部竹古連公(もののべのたけこのむらじきみ)の娘の弟媛(おとひめ)を妻として、二人の子をお生みになった。
弟に、物部竺志連公(もののべのつくしのむらじきみ)
奄智蘊連(あんちのかつらのむらじ)らの祖である]。
弟に、物部竹古連公(もののべのたけこのむらじきみ)
[藤原恒見君(ふじわらのつねみのきみ)、長田川合君(おさだのかわいのきみ)、三川蘊連(みかわのかつらのむらじ)らの祖である]。
弟に、物部椋垣連公(もののべのくらがきのむらじきみ)
[磯城蘊連(しきのかつらのむらじ)、比尼蘊連(ひねのかつらのむらじ)らの祖である]。
以上の三人は、同じく景行天皇の御世に、並んで侍臣となってお仕えした。

十世孫・物部印葉連公(もののべのいにはのむらじきみ)。多遅麻大連の子である。
この連公は、軽嶋豊明宮(かるしまのとよあかりのみや)で天下を治められた応神天皇の御世、拝命して大連となり、石上神宮をお祀りした。
姉に、物部山無媛連公(もののべのやまなしひめのむらじきみ)
この連公は、応神天皇の皇妃となり、太子・莵道稚郎子皇子(うじのわきいらつこのみこ)、矢田皇女(やたのひめみこ)、雌鳥皇女(めどりのみこ)をお生みになった。その矢田皇女は、難波高津宮(なにわのたかつのみや)で天下を治められた仁徳天皇の皇后となられた。
弟に、物部伊与連公(もののべのいよのむらじきみ)
弟に、物部小神連公(もののべのおかみのむらじきみ)
以上の二人は、同じ仁徳天皇の御世、共に侍臣となってお仕えした。
弟に、物部大別連公(もののべのおおわけのむらじきみ)
この連は、仁徳天皇の御世に、詔をうけて侍臣となり、石上神宮をお祀りした。
応神天皇の太子である莵道稚郎子皇子の同母妹・矢田皇女は、仁徳天皇の皇后になったが、皇子は生まれなかった。このとき、侍臣の大別連公に詔して、御子代を設けさせた。皇后の名をウヂの名とし、大別連公を氏造として、改めて矢田部連公(やたべのむらじきみ)の姓を賜った。

同じく十世孫・物部伊莒弗連公(もののべのいこふつのむらじきみ)。五十琴宿祢の子である。
この連公は、稚桜宮(わかさくらのみや)で天下を治められた履中天皇と柴垣宮(しばがきのみや)で天下を治められた反正天皇の御世に大連となって、石上神宮をお祀りした。
倭国造(やまとのくにのみやつこ)の祖・比香賀君(ひかがのきみ)の娘の玉彦媛(たまひこひめ)を妻として、二人の子をお生みになった。また、姪の岡陋媛(おかやひめ)を妾として、二人の子をお生みになった。
弟に、物部麦入宿祢連公(もののべのむぎりのむらじきみ)
この連公は、遠飛鳥宮(とおつあすかのみや)で天下を治められた允恭天皇の御世に、はじめ大連となり、ついで宿祢となって、石上神宮をお祀りした。
物部目古連公(もののべのめこのむらじきみ)の娘の全能媛(またのひめ)を妻として、四人の子をお生みになった。
弟に、物部石持連公(もののべのいわもちのむらじきみ)
佐為連(さいのむらじ)らの祖である。

同じく十世孫・物部目古連公(もののべのめこのむらじきみ)
[田井連(たいのむらじ)らの祖で、五十琴彦の子である]。
弟に、物部牧古連公(もののべのまきこのむらじきみ)
[佐比佐連(さひさのむらじ)らの祖である]。

十一世孫・物部真椋連公(もののべのまくらのむらじきみ)
[巫部連(かんなぎべのむらじ)、文島連(ふみしまのむらじ)、須佐連(すさのむらじ)らの祖で、伊莒弗宿祢の子である]。
弟に、物部布都久留連公(もののべのふつくるのむらじきみ)
この連公は、雄略朝(大長谷朝:おおはつせのみかど)の御世に大連となり、石上神宮をお祀りした。
依羅連柴垣(よさみのむらじしばがき)の娘の太姫(ふとひめ)を妻として、一人の子をお生みになった。
弟に、物部目大連公(もののべのめのおおむらじきみ)
この連公は、磐余甕栗宮(いわれのみかぐりのみや)で天下を治められた清寧天皇の御世に、大連となって、石上神宮をお祀りした。
弟に、物部鍛治師連公(もののべのかぬちのむらじきみ)
鏡作(かがみつくり)小軽馬連(おかるまのむらじ)らの祖である。
弟に、物部竺志連公(もののべのつくしのむらじきみ)
新家連(にいのみのむらじ)らの祖である。

同じく十一世孫・物部大前宿祢連公(もののべのおおまえすくねのむらじのきみ)[氷連(ひのむらじ)らの祖である]。麦入宿祢の子である。
この連公は、石上穴穂宮(いそのかみのあなほのみや)で天下を治められた安康天皇の御世に、はじめ大連となり、ついで宿祢となって、石上神宮をお祀りした。
弟に、物部小前宿祢連公(もののべのおまえすくねのむらじきみ)[田部連(たべのむらじ)らの祖である]。
この連公は、近飛鳥八釣宮(ちかつあすかのやつりのみや)で天下を治められた顕宗天皇の御世に、はじめ大連となり、ついで大宿祢となって、石上神宮をお祀りした。
弟に、物部御辞連公(もののべのみことのむらじきみ)
[佐為連(さいのむらじ)らの祖である]。
弟に、物部石持連公(もののべのいわもちのむらじきみ)
[刑部垣連(おさかべのかきのむらじ)、刑部造(おさかべのみやつこ)らの祖である]。

十二世孫・物部木蓮子連公(もののべのいたびのむらじきみ)。布都久留大連の子である。
この連公は、石上広高宮(いそのかみのひろたかのみや)で天下を治められた仁賢天皇の御世に、大連となって、石上神宮をお祀りした。
御大君(みおおのきみ)の祖の娘・里媛(さとひめ)を妻として、二人の子をお生みになった。
弟に、物部小事連公(もののべのおごとのむらじきみ)
[志陀連(しだのむらじ)、柴垣連(しばがきのむらじ)、田井連(たいのむらじ)らの祖である]。
弟に、物部多波連公(もののべのたはのむらじきみ)
[依網連(よさみのむらじ)らの祖である]。

同じく十二世孫・物部荒山連公(もののべのあらやまのむらじきみ)[目大連の子である]。
この連公は、桧前盧入宮(ひのくまのいおよりのみや)で天下を治められた宣化天皇の御世に、大連となって、石上神宮をお祀りした。
弟に、物部麻作連公(もののべのまさのむらじきみ)
[借馬連(かるまのむらじ)、笶原連(やはらのむらじ)らの祖である]。

十三世孫・物部尾輿連公(もののべのおこしのむらじきみ)。荒山大連の子である。
この連公は、磯城嶋金刺宮(しきしまのかなさしのみや)で天下を治められた欽明天皇の御世に、大連となって、石上神宮をお祀りした。
弓削連(ゆげのむらじ)の祖・倭古連(やまとこのむらじ)の娘の阿佐姫(あさひめ)と加波流姫(かはるひめ)を妻として、それぞれ姉は四人の子を生み、妹は三人の子を生んだ。
弟に、物部奈洗連公(もののべのなせのむらじきみ)

同じく十三世孫・物部麻佐良連公(もののべのまさらのむらじきみ)。木蓮子大連の子である。
この連公は、泊瀬列城宮(はつせのなみきのみや)で天下を治められた武烈天皇の御世に、大連となって、石上神宮をお祀りした。
須羽直(すわのあたい)の娘の妹古(いもこ)を妻として、二人の子をお生みになった。
弟に、物部目連公(もののべのめのむらじきみ)
この連公は、継体天皇の御世に、大連となって、石上神宮をお祀りした。
弟に、物部長目連公(もののべのおさめのむらじきみ)
[軽馬連(かるまのむらじ)らの祖である]。
弟に、物部金連公(もののべのかねのむらじきみ)
[借馬連(かるまのむらじ)、野馬連(ぬまのむらじ)らの祖である]。
弟に、物部呉足尼連公(もののべのくれのすくねのむらじきみ)
[依羅連らの祖である]。
この連公は、欽明天皇の御世に、宿祢となった。
弟に、物部建彦連公(もののべのたけひこのむらじきみ)
[高橋連(たかはしのむらじ)、立野連(たちののむらじ)、都刀連(つとのむらじ)、横広連(よこひろのむらじ)、勇井連(ゆいのむらじ)、伊勢荒比田連(いせのあらひたのむらじ)、小田連(おだのむらじ)らの祖である]。

十四世孫・物部大市御狩連公(もののべのおおいちのみかりのむらじきみ)。尾輿大連の子である。
この連公は、譯語田宮(おさだのみや)で天下を治められた敏達天皇の御世に、大連となって、石上神宮をお祀りした。
弟の贄古大連(にえこのおおむらじ)の娘の宮古郎女(みやこのいらつめ)を妻として、二人の子をお生みになった。
弟に、物部守屋大連公(もののべのもりやのおおむらじきみ)。または弓削大連(ゆげのおおむらじ)という。
この連公は、池辺双槻宮(いけのべのなみつきのみや)で天下を治められた用明天皇の御世に、大連となって、石上神宮をお祀りした。
弟に、物部今木金弓若子連公(もののべのいまきのかなゆみわくごのむらじのきみ)
今木連(いまきのむらじ)らの祖である。
妹に、物部連公(もののべのむらじきみ)布都姫夫人(ふつひめのおおとじ)。字は御井夫人(みいのおおとじ)、または石上夫人(いそのかみのおおとじ)という。
倉梯宮(くらはしのみや)で天下を治められた崇峻天皇の御世に夫人となった。また、朝政に参与して、神宮をお祀りした。
弟に、物部石上贄古連公(もののべのいそのかみのにえこのむらじきみ)
この連公は、異母妹の御井夫人を妻として、四人の子をお生みになった。
小治田豊浦宮(おはりだのとゆらのみや)で天下を治められた推古天皇の御世に、大連となって、石上神宮をお祀りした。
弟に、物部麻伊古連公(もののべのまいこのむらじきみ)
屋形連(やかたのむらじ)らの祖である。
弟に、物部多和髪連公(もののべのたわかみのむらじきみ)

同じく十四世孫・物部麁鹿火連公(もののべのあらかいのむらじきみ)。麻佐良大連の子である。
この連公は、勾金橋宮(まがりのかなはしのみや)で天下を治められた安閑天皇の御世に、大連となって、石上神宮をお祀りした。
弟に、物部押甲連公(もののべのおしかいのむらじきみ)
この連公は、檜前盧入宮で天下を治められた宣化天皇の御世に、大連となって、石上神宮をお祀りした。
弟に、物部老古連公(もののべのおゆこのむらじきみ)
[神野入州連(かみののいりすのむらじ)らの祖である]。

同じく十四世孫に、物部金連公(もののべのかねのむらじきみ)
[野間連(のまのむらじ)、借馬連らの祖で、目大連の子である]。
弟に、物部三楯連公(もののべのみたてのむらじきみ)
[鳥部連(とりべのむらじ)らの祖である]。
弟に、物部臣竹連公(もののべのおみたけのむらじきみ)
[肩野連(かたののむらじ)、宇遅部連(うじべのむらじ)らの祖である]。
弟に、物部倭古連公(もののべのやまとこのむらじきみ)
[流羅田部連(ならたべのむらじ)らの祖である]。
弟に、物部塩古連公(もののべのしおこのむらじきみ)
[葛野韓国連(かどののからくにのむらじ)らの祖である]。
弟に、物部金古連公(もののべのかねこのむらじきみ)
[三島韓国連(みしまのからくにのむらじ)らの祖である]。
弟に、物部阿遅古連公(もののべのあじこのむらじきみ)
[水間君(みぬまのきみ)らの祖である]。

十五世孫・物部大人連公(もののべのうしのむらじきみ)[御狩大連の子である]。
この連公は、物部雄君連公(もののべのおきみのむらじきみ)の娘の有利媛(ありひめ)を妻として、一人の子をお生みになった。
弟に、物部目連公
[大真連(おおまのむらじ)らの祖である]。この連公は、磯城嶋宮で天下を治められた欽明天皇の御世に、大連となって、石上神宮をお祀りしました。

同じく十五世孫に、内大紫冠位・物部雄君連公(もののべのおきみのむらじのきみ)。守屋大連の子である。
この連公は、飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)で天下を治められた天武天皇の御世に、物部氏の氏上を名のることを許され、内大紫冠の位を賜って、石上神宮をお祀りした。
物部目大連の娘の豊媛(とよひめ)を妻として、二人の子をお生みになった。

同じく十五世孫・物部鎌束連公(もののべのかまつかのむらじきみ)。贄古大連の子である。
弟に、物部長兄若子連公(もののべのながえのわくごのむらじきみ)
弟に、物部大吉若子連公(もののべのおおよしのわくごのむらじきみ)
妹に、物部鎌姫大刀自連公(もののべのかまひめのおおとじのむらじきみ)
この連公は、推古天皇の御世に、参政となって、石上神宮をお祀りした。
宗我嶋大臣(そがのしまのおおみ)の妻となって、豊浦大臣(とゆらのおおみ)をお生みになった。豊浦大臣の名を、入鹿連公(いるかのむらじきみ)という。

同じく十五世孫・物部石弓連公(もののべのいわゆみのむらじきみ)
今木連らの祖で、麁鹿火大連の子である。
弟に、物部毛等若子連公(もののべのもとのわくごのむらじきみ)
屋形連(やかたのむらじきみ)らの祖である。

同じく十五世孫・物部奈西連公(もののべのなせのむらじきみ)
葛野連らの祖で、押甲大連の子である。

同じく十五世孫・物部恵佐古連公(もののべのえさこのむらじきみ)。麻伊古大連の子である。
この連公は、推古天皇の御世に、大連となって、神宮をお祀りした。

十六世孫・物部耳連公(もののべのみみのむらじきみ)
今木連らの祖で、大人連公の子である。

同じく十六世孫・物部忍勝連公(もののべのおしかつのむらじきみ)。雄君連公の子である。
弟に、物部金弓連公(もののべのかなゆみのむらじきみ)
今木連らの祖である。

同じく十六世孫・物部馬古連公(もののべのうまこのむらじきみ)。目大連の子である。
この連公は、孝徳朝(難波朝:なにはのみかど)の御世に、大華上の位と氏のしるしの大刀を授かり、食封千烟を賜って、神宮をお祀りした。

同じく十六世孫・物部荒猪連公(もののべのあらいのむらじきみ)
榎井臣(えのいのおみ)らの祖で、恵佐古大連の子である。
この連公は、同じ孝徳朝の御世に、大華上の位を賜った。
弟に、物部弓梓連公(もののべのあづさのむらじきみ)
榎井臣らの祖である。
弟に、物部加佐夫連公(もののべのかさふのむらじきみ)
榎井臣らの祖である。
弟に、物部多都彦連公(もののべのたつひこのむらじきみ)
榎井臣らの祖である。
この連公は、天智朝(淡海朝:おうみのみかど)の御世に、大連となって、神宮をお祀りした。

十七世孫・物部連公(もののべのむらじきみ)麻呂(まろ)。馬古連公の子である。
この連公は、天武朝の御世に天下のたくさんの姓を八色に改め定めたとき、連公を改めて、物部朝臣(もののべのあそん)の姓を賜った。さらに、同じ御世に改めて、石上朝臣(いそのかみのあそん)の姓を賜った。

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