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 物部氏年表

元号(西暦)年

事項

神武即位前紀甲寅年 10月 5日 神武東征開始。
神武即位前紀戊午年 2月 11日 皇軍、長髄彦の軍と交戦。五瀬命が負傷。
神武即位前紀戊午年 6月   武甕雷神より高倉下のもとへ韴霊剣が天降り、磐余彦尊へ献じられる。
神武即位前紀戊午年 12月 4日 皇軍、再び長髄彦を討つ。金鵄の力により皇軍優勢となり、長髄彦は使者をもって自分が饒速日命に仕えていることを示す。磐余彦尊、饒速日命が真の天神の子であることを認める。長髄彦が磐余彦尊に敵対を止めないため、饒速日命、長髄彦を誅し、帰順する。これが物部氏の祖という。
孝元57年 11月 12日 開化天皇即位。母は穂積臣の祖欝色雄命の妹・欝色謎命。
崇神元年 1月 13日 崇神天皇即位。母の伊香色謎命は物部氏遠祖大綜杵の娘。
崇神7年 8月 7日 穂積臣の祖・大水口宿禰ら三人が、大田田根子命を大物主神を祀る祭主に、市磯長尾市を倭大国魂神を祀る祭主にすれば、天下は平らぐだろうという夢のお告げを得る。占いに、物部連の祖の伊香色雄を神班物者にすると良しと出る。
崇神7年 11月 13日 伊香色雄の率いる物部八十手が作った幣帛によって、大物主神と倭大国魂神を祀る。
崇神60年 7月 14日 矢田部造の遠祖・武諸隅を出雲に遣わす。
垂仁25年 2月 8日 物部連の祖・十千根ら五大夫に、神々を敬い祀ることを怠らないよう詔する。
垂仁26年 8月 3日 出雲にたびたび使者を遣わして神宝のことを検めさせていたが判然としないため、物部十千根大連を遣わす。十千根大連はよく調べてはっきりと報告したため、神宝のことを掌らされることになった。
垂仁26年 10月 甲子 一説に、天照大神を伊勢国渡遇宮に移す。このとき倭大国魂神が穂積臣の祖大水口宿祢を通じて神託を下したため、渟名城稚姫命、ついで大倭直の祖長尾市宿祢に祀らせる。
垂仁39年 10月   五十瓊敷命、茅渟の菟砥川上宮で作らせた剣一千口を石上神宮に納める。この後、五十瓊敷命が石上神宮の神宝を掌る。一説に、五十瓊敷命は剣を忍坂に納める。後に石上神宮に移したという。このとき神が春日臣の一族の市河に治めさせるよう述べる。市河は物部首の先祖。
垂仁87年 2月 5日 五十瓊命、老齢を理由に妹の大中姫に神宝の管理の職を譲る。大中姫命は物部十千根大連にこのを職を授けて治めさせる。物部連が今に至るまで石上の神宝を掌るのは、これがそのもとであるという。
景行12年 9月 5日 天皇、周芳の佐波で南方に多く煙が立っていることを見て、物部君の祖・夏花らを遣わし様子を探らしめる。
景行12年 10月   天皇、土蜘蛛を討つため柏峡の大野にやどる。直入物部神らに誓約して石の占いを行う。
景行18年 7月 7日 八女県に天皇到着。藤山を越え粟岬を望んだとき、水沼県主猿大海が八女津媛という女神が山中にあることを奏言。
景行40年     日本武尊、相模から上総へ渡ろうとする。暴風を鎮めるため、穂積氏忍山宿祢のむすめ弟橘媛が海に入る。
仲哀9年 2月 5日 天皇崩御。皇后は物部胆咋連ら四大夫に詔して、天下の騒乱に備えて宮中を守らせる。
仁徳87年     住吉仲皇子、去来穂別太子の宮を襲う。物部大前宿禰らは太子を助け、馬に乗せ脱出させる。一説に、大前宿禰が太子を抱いて馬に乗せたという。太子、石上振神宮に拠る。
履中2年 10月   磐余に都を造る。ときに、物部伊莒弗大連らが執政。
履中3年 11月 6日 天皇、市磯池に遊ぶとき、季節外れの桜の花びらが盃に散る。天皇はこれを怪しみ、物部長真胆連に調査を命ず。長真胆連は腋上の室山で桜を手に入れた。そのため、長真胆連は姓を賜り稚桜部連といった。
允恭42年 10月   木梨軽太子、群臣人民の離反することを知り、物部大前宿禰の家に身をひそめたため、穴穂皇子、これを包囲する。大前宿禰、軽太子の助命を嘆願するも、太子は自害する。一説に伊予に流すという。
安康3年 11月 13日 雄略天皇、泊瀬朝倉宮に即位する。物部連目、大伴連室屋を大連とする。
雄略7年 8月   吉備下道臣前津屋、舎人の吉備弓削部虚空を自分のもとに留めて、幾月も帰京させず。身毛君丈夫を遣わし呼び戻したところ、虚空の報告するところによると、前津屋は天皇を侮辱する遊びに興じているという。天皇、それを聞き、物部の兵士三十人を遣わして前津屋とその一族七十人を殺さしめる。
雄略9年 2月 1日 采女を犯した凡河内直香賜を天皇は殺すことを命じたが、香賜が逃げ隠れたために、さらに弓削連豊穂を遣わして広く捜索させ、三島郡藍原で捕えて処刑した。
雄略12年 10月 10日 木匠闘鶏御田に命じて楼閣を造らせる。このとき飛ぶように素早く働く御田を見た伊勢の采女は驚いて倒れ、天皇は御田が采女を姦そうとしたと疑い、罰するため刑吏の物部に渡した。しかし、天皇のそばに侍っていた秦酒公の歌により、罪を許されたという。
雄略13年 3月   采女を犯した狭穂彦玄孫歯田根命を、物部目大連に預けて責めさせた。歯田根命は資財をもって罪科を償い、資財は餌香市に晒された。餌香長野邑は物部目大連に賜る。
雄略13年 9月   天皇、木匠猪名部真根の技術をためすべく、石を台にして作業する彼の前で裸の采女に相撲を取らせ、それを見た真根が気を奪われ失敗すると責め、刑吏の物部に渡し、処刑しようとした。真根の同僚が惜しむ歌を聞いた天皇は後悔し、赦免した。
雄略18年 8月 10日 物部目連、物部菟代宿祢の二人を将として、伊勢の賊・朝日郎を討つ。菟代宿禰は朝日郎の強弓を恐れ進まなかったが、目連は筑紫企救物部の大斧手に楯をとらせて自ら突撃、朝日郎を斬った。菟代宿禰は恥じて七日に及ぶまで復命せず、天皇の怒りに触れて猪使部を没収され、これは目連に賜った。
仁賢11年 8月   仁賢天皇崩御。稚鷦鷯太子、物部麁鹿火の娘・影媛を娶ろうとするも、平群臣鮪がすでに影媛を犯していたことを知り、平群臣の無礼を怒る。太子の命を受けた大伴金村連の兵により鮪は殺され、影媛は悲しみ歌をつくる。
継体元(507)年 1月 4日 物部麁鹿火、許勢男人とともに、大伴金村の議る男大迹王擁立に同意する。
継体元(507)年 2月 4日 男大迹王即位(継体天皇)。物部麁鹿火・大伴金村を大連とし、旧例の職位のままに任じる。
継体6(512)年 4月 6日 穂積臣押山を百済に遣わして筑紫国の馬四十頭を賜る。
継体6(512)年 12月   任那国の四県を百済に割譲する使者に、物部麁鹿火が選ばれるも、妻の諌めによって使者の役を避ける。
継体7(513)年 6月   穂積臣押山、百済の姐弥文貴将軍・洲利即爾将軍に同道して帰国。
継体9(515)年 2月 4日 文貴将軍ら帰国。物部至至連をこれに副えて遣わす。
継体9(515)年 2月   巨済島で伴跛の人の無道を聞き、物部至至連、帯沙江へ水軍五百を率いて向かう。
継体9(515)年 4月   物部連、帯沙江に六日留まるも、伴跛の襲撃に怖れ、モン慕羅島へ逃れる。
継体10(516)年 5月   百済、物部連を己モンに迎えてねぎらい、その後国に入れて慰問する。
継体10(516)年 9月   百済の州利即次将軍来日。物部連帰国。
継体21(527)年 6月 3日 磐井の乱起こる。鎮圧の将軍に、物部麁鹿火が推挙される。
継体21(527)年 8月 1日 物部麁鹿火、磐井討伐の勅を受ける。
継体22(528)年 11月 11日 物部麁鹿火率いる官軍と、磐井の軍、筑紫の三井で交戦。麁鹿火、磐井を斬り反乱を鎮圧する。
継体23(529)年 3月   百済王が穂積臣押山に加羅の多沙津を朝貢の海路として賜りたい旨いい、押山は伝奏。
物部伊勢連父根らを遣わし、多沙津を百済王に賜る使者とするが、加羅の王の反対にあって退く。別に禄史を遣わして、勅を伝えたという。
継体25(531)年 2月 7日 安閑天皇即位。物部麁鹿火を大連とすることは、もとのとおり。
安閑元(534)年 3月 6日 物部木蓮子大連の娘・宅媛、立妃。
安閑元(534)年 閏12月   廬城部連の娘・幡姫、物部大連尾輿の首飾りを盗み、春日山田皇后にたてまつる。事は露見し、尾輿は自分が事件と係り合うのを恐れ、大和国十市部・伊勢国の来狭々・登伊の贄土師部・筑紫国胆狭山部などを献上する。
宣化元(536)年 2月 1日 物部麁鹿火大連を大連とすることはもとのとおり。
宣化元(536)年 5月 1日 筑紫国の凶作に備える詔。物部大連麁鹿火は新家連を遣わし、新家屯倉の籾を運ばせる。
宣化元(536)年 7月   物部麁鹿火大連、薨じる。
宣化4(539)年 12月 5日 欽明天皇即位。物部尾輿を大連とすることはもとの通り。
欽明元(540)年 9月 5日 天皇、難波祝津宮行幸。物部大連尾輿らが従う。新羅討伐の軍勢がどれだけあればよいかという下問があり、尾輿、少ない軍では討つことができないこと、継体六年に任那四県を百済に割譲したのを新羅が恨みに思っていることを奏する。
欽明4(543)年 9月   百済の聖明王、物部施徳麻奇牟らを遣わして、扶南の財物・奴二人を献ずる。
欽明5(544)年 2月   これより以前、物部連奈率用歌多、百済の使者として天皇に謁見し、詔書を持ち帰る。
欽明5(544)年 3月   物部奈率哥非、百済の使者として来朝する。
欽明13(552)年 10月   仏教公伝。仏を祀るかどうかの下問に、物部大連尾輿は排仏を主張。後、疫病が流行したのは蘇我大臣稲目の崇仏によるものとし、向原の寺を焼き、仏像は難波の掘江に流す。
欽明15(554)年 2月   百済の上部奈率物部烏、援軍を請う使者として来朝。
欽明15(554)年 12月   百済は下部杆率モン斯干奴を遣わし、対新羅戦の戦況を報告、並びに援軍の増援を要請。東方領の物部莫哥武連は函山城攻略の将。竹斯物部莫奇委沙奇は火箭の扱いが上手かったという。
欽明16(555)年 7月 4日 蘇我大臣稲目宿祢・穂積磐弓臣らを吉備の五郡に遣わし白猪屯倉を設置する。
敏達元(572)年 4月   敏達天皇即位。物部弓削守屋大連を大連とすることはもとの通り。
敏達12(583)年     百済から火葦北國造刑部靭部阿利斯登の子、日羅を召し、阿斗桑市に住居を与える。天皇、物部贄子連らを遣わして、国政のあり方について問う。後、百済の徳爾によって日羅暗殺。贄子大連らに小郡の西畔の丘の前に葬るよう詔する。
敏達14(585)年 3月 1日 物部弓削守屋大連と中臣勝海大夫が奏上して、国内に疫病がおこって死者が多いのは、蘇我臣が仏教を広めたことによるといい、天皇、即刻仏教を止めさせるよう詔する。
敏達14(585)年 3月 30日 物部守屋大連、みずから寺に赴き、塔を倒し、仏像仏殿等を焼かしめる。
敏達14(585)年 6月   ある説に、物部守屋大連、大三輪逆君、中臣磐余連がともに謀り、寺塔を焼き仏像を捨てようとしたが、蘇我馬子宿禰が反対したためできなかったという。
敏達14(585)年 8月 15日 敏達天皇崩御。殯宮での誄を述べるとき、蘇我馬子宿禰大臣と物部弓削守屋大連、諍いを起こし、恨みを抱きあうようになったという。
敏達14(585)年 9月 5日 用明天皇即位。物部弓削守屋連を大連とすることはもとの通り。
用明元(586)年 5月   物部守屋大連、穴穂部皇子の命により、三輪君逆を討つ。
用明2(587)年 4月 2日 用明天皇、病を得て仏門に帰依することを群臣に諮る。物部守屋大連と中臣勝海連はそれに反対。物部守屋大連、押坂部史毛屎の言により群臣たちが自分を落とし入れようとしていることを知り、河内の阿都の別邸へ退き、人を集める。物部八坂・大市造小坂・漆部造兄を蘇我大臣のもとへ遣わし、阿都へ移った理由を述べる。
用明2(587)年 5月   物部大連の軍が人々を三度に渡って驚かす。
用明2(587)年 7月   蘇我馬子宿禰大臣、諸皇子と群臣とともに、物部守屋大連を滅ぼす。守屋大連は渋川の家に拠り防戦し、寄せ手を三度退却させたが、迹見首赤梼によって射殺される。大連の一族は、ある者は葦原に逃げ隠れ、また姓を改め名を変える者もあったという。乱後、摂津に四天王寺が建立。大連の奴の半分と宅とを分け、寺の奴・田荘とする。守屋大連の難波宅を守っていた捕鳥部万、大連の敗死を聞き茅渟の有真香邑へ逃亡し、追っ手の官軍に反抗するも力尽きて自殺。
崇峻5(592)年 12月 8日 豊御食炊屋姫即位(推古天皇)。
推古元(593)年 1月 4日 厩戸皇子を皇太子とする。
推古8(600)年     境部臣を大将軍に穂積臣を副将軍に任じ、新羅を討つ。
推古11(603)年 12月 5日 冠位十二階を制定。
推古12(604)年 4月 3日 皇太子、憲法十七条を作る。
推古15(607)年 7月 3日 小野妹子を大唐(隋)に遣わす。
推古16(608)年 8月 3日 大唐(隋)の使者・裴世清ら、飛鳥に入る。案内役に物部依網連抱と阿倍鳥臣。
推古22(614)年 6月 13日 矢田部造御嬬を大唐に遣わす。
推古23(615)年 9月   矢田部造御嬬が大唐から戻る。
推古31(623)年     境部臣雄摩侶・中臣連国の率いる軍が新羅を討つ。副将軍に物部依網連乙等ら。
推古36(628)年 9月   推古天皇の後継を蘇我蝦夷大臣と群臣が議す。采女臣摩礼志は大伴連鯨らとともに田村皇子を推す。
推古36(628)年     蘇我蝦夷大臣、皇嗣問題で境部臣摩理勢と対立。大臣は摩理勢を討ち、来目物部伊区比に絞殺させる。
舒明元(629)年 4月 1日 田部連を掖玖に遣わす。
舒明2(630)年 9月   田部連らが掖玖より戻る。
皇極2(643)年 10月 6日 蘇我大臣蝦夷、病のため登朝せず。ひそかに紫冠を子の入鹿に授け大臣の位になぞらえる。また、入鹿の弟を称して物部大臣という。大臣の祖母は物部守屋の妹であるので、母方の財によって世に威を張ったという。
大化元(645)年 6月 12日 中大兄皇子ら、蘇我臣入鹿を殺す。
大化元(645)年 9月 3日 古人大兄皇子、謀反を企てる。物部朴井連椎子がこの計画に参加。
大化2(646)年 1月 1日 改新の詔を発布。
大化2(646)年 3月 19日 東国の国司として派遣されていた穂積臣咋、巨勢臣徳祢の次官を勤めていた朴井連ら、怠慢・法の違反により罪に問われるが大赦。
大化5(649)年 3月 24日 蘇我倉山田石川麻呂が蘇我臣日向の讒言を受ける。天皇、穂積噛臣らを叛乱の真偽を問う使者として遣わす。
大化5(649)年 3月 25日 采女臣使主麻呂、山田寺で蘇我倉麻呂が自殺したことを将に報告。
大化5(649)年 3月 26日 蘇我倉山田麻呂、冤罪をかけられて自殺。穂積臣噛、蘇我倉麻呂の一党の田口臣筑紫らを捕らえ、軍を率いて山田寺を囲む。麻呂の首は物部二田造塩が斬り落とす。
斉明3(657)年     新羅の遣唐使につけて依網連稚子ら我が国の使いも大唐に送ろうとしたが、新羅の協力が得られず頓挫。
斉明4(658)年 11月 5日 蘇我赤兄、有馬皇子に謀反の疑いありとして、物部朴井連鮪に皇子の市経の家を囲ませる。
斉明7(661)年 8月   百済救援の軍を派遣。後軍の将は大花下阿倍引田比邏夫臣と大山上物部連熊。
斉明7(661)年 9月   大山下狭井連檳榔が率いる五千余の兵に守らせて豊璋を百済へ送る。
天智元(662)年 12月 1日 豊璋と福信が遷都について狭井連らに相談。反対されるも避城に都する。
天智2(663)年 8月 28日 官軍、白村江にて新羅・唐軍に敗退。
天智6(667)年 3月 19日 都を近江に遷す。
天智9(670)年 2月   庚午年籍を作る。
天武元(672)年 5月   朴井連雄君が大海人皇子に美濃へ私用で出かけたときに得た近江朝側の情報を奏上。
天武元(672)年 6月 24日 大海人皇子が吉野を出て東国に入る。舍人朴井連雄君、安斗連智徳らがつき従う。
天武元(672)年 6月 26日 伊勢国朝明郡の迹太川にて大海人皇子が天照大神を遥拝。漆部友背らを伴として大津皇子が合流。安斗連阿加布を東海道諸国の軍兵を募るために遣わす。近江朝廷、大海人皇子が東国に向かったことを聞き、穂積臣百足・穂積臣五百枝・物部首日向を倭京へ遣わす。
天武元(672)年 6月 29日 穂積臣百足、大伴連吹負の兵によって殺される。穂積臣五百枝・物部首日向は捕らえられた後許されて大海人皇子側の軍中に入る。
天武元(672)年 7月 23日 大友皇子、山前にて自縊。ときに左右大臣や群臣は皆散り逃げ、付き従っていたのは物部連麻呂と一、二の舎人のみ。
天武2(673)年 2月 27日 大海人皇子即位(天武天皇)。
天武3(674)年 8月 3日 忍壁皇子を石上神宮に遣わして、神宝を磨かせる。神府に納められていた諸家の宝物は、皆その子孫に返還する勅。
天武4(675)年 4月 10日

大山中曽祢連韓犬を遣わして大忌神を広瀬の河原に祭らせる。

天武5(676)年 6月   物部雄君連、急病で卒する。壬申年の功により、内大紫の位と物部の氏上を追贈。
天武5(676)年 10月 10日 大乙上物部連麻呂、遣新羅使の大使として派遣される。
天武6(677)年 2月 1日 物部連麻呂、新羅より戻る。
天武9(680)年 7月 17日 朴井連子麻呂に小錦下の位を授ける。
天武10(681)年 3月 17日 忍壁皇子・中臣連大嶋らに帝記・上古の諸事を記定させる。
天武10(681)年 7月 4日 小錦下采女臣竹羅を大使として新羅に遣わす。
天武10(681)年 12月 29日 物部連麻呂・曽祢連韓犬・田部連国忍らに小錦下の位を授ける。
天武12(683)年 9月 23日 水取造・矢田部造・刑部造・物部首・白髪部造ら三十八氏に連の姓を賜る。
天武13(684)年 1月 28日 小錦下采女臣筑羅らを信濃に遣わし地勢を視察させる。
天武13(684)年 11月 1日 物部連・采女臣・穂積臣ら五十二氏に朝臣の姓を賜る。
天武13(684)年 12月 2日 巫部連、忍壁連、漆部連、若湯人連、弓削連、氷連、矢集連、狭井連、阿刀連、菟道連、布留連ら五十氏に宿祢の姓を賜る。
朱鳥元(686)年 1月   新羅の使者・金智祥を饗するため、直広肆穂積朝臣虫麻呂らを筑紫に遣わす。
朱鳥元(686)年 1月 14日 難波宮で火災。阿斗連薬の家の失火を原因とする噂があった。
朱鳥元(686)年 9月 9日 天武天皇崩御。
朱鳥元(686)年 9月 27日 直大肆采女朝臣竺羅、内命婦の事を誄する。
朱鳥元(686)年 9月 28日 直広參石上朝臣麻呂、法官の事を誄する。
朱鳥元(686)年 9月 29日 直広肆穂積朝臣虫麻呂、諸国の国司の事を誄する。
持統3(689)年 2月 26日 穂積朝臣山守らを判事に任じる。
持統3(689)年 7月 20日 偽の兵衛、河内国渋川郡の人・柏原広山を土佐国に流す。
持統3(689)年 9月 10日 直広参石上朝臣麻呂らを筑紫に遣わし、位記の給付と新城の監視をさせる。
持統4(690)年 1月 1日 持統天皇即位。物部麻呂朝臣、大楯を立てる。
持統5(691)年 8月 13日 石上氏、采女氏、穂積氏ら十八氏に詔して、その先祖の墓記を上進させる。
持統6(692)年 3月   石上朝臣麻呂、伊勢行幸に従駕。
持統8(694)年 6月 8日

河内国更荒郡から白い山鶏が献上され、これを捕らえた刑部造韓国に進広貳の位と物を賜る。

持統8(694)年 12月 6日 藤原京に遷都。
持統10(696)年 4月 27日 伊予国風速郡の人・物部薬に追大弐の位と水田四町等を授けたうえ、戸の調役を免除する。長く唐地で苦労したことを労わったもの。
持統10(696)年 10月 22日 直広壱石上朝臣麻呂に、仮に舎人五十人を私用することを許す。
文武元(697)年 11月 11日 進広参習宜連諸国を海路から筑紫に遣わし、前月来朝した新羅からの使者を迎える。
文武2(698)年 11月 23日 大嘗祭。直広肆榎井朝臣倭麻呂が大楯を立てる。
文武4(700)年 6月 17日 浄大参刑部親王、直広壱藤原朝臣不比等、追大壱狭井宿祢尺麻呂らに勅して律令を選定させる。その各々に身分に応じて物を賜る。
文武4(700)年 10月 15日 直大壱石上朝臣麻呂を筑紫総領に任じる。
大宝元(701)年 1月 15日 大納言正広参大伴宿祢御行が薨じる。直広肆榎井朝臣倭麻呂を遣わし葬儀を監護させる。
大宝元(701)年 3月 21日 新令(大宝令)に基づいて、官名と位号の制を改正。中納言直大壱(正四位上相当)石上朝臣麻呂に正冠・正三位を授け、大納言に任じる。
大宝元(701)年 7月 21日 左大臣正二位多治比真人嶋が薨じる。三品刑部親王と正三位石上朝臣麻呂を嶋の邸宅に遣わし、物を贈って弔わせる。
壬申の乱の功臣にそれそれの功績の程度に応じて食封を与える。持統朝に榎井連小君(朴井連雄君)ら十人に百戸が与えられていたが、大宝令功封条に従ってその子に四分の一を相続させることとする。
大宝元(701)年 8月 3日 大宝律令完成。
大宝2(702)年 3月 11日 従七位下巫部宿祢博士の位一階昇進。
大宝2(702)年 8月 16日 正三位石上朝臣麻呂を太宰師に任じる。
大宝2(702)年 12月 22日 持統上皇崩御。
大宝3(703)年 1月 2日 正八位上穂積朝臣老を山陽道に遣わし、巡視させる。
大宝3(703)年 2月 4日 従七位下衣縫造孔子に連の姓を賜る。
大宝3(703)年 閏4月 1日 右大臣従二位阿倍朝臣御主人が薨じる。正三位石上朝臣麻呂らを遣わし、物を贈って弔わせる。
慶雲元(704)年 1月 7日

大納言従二位石上朝臣麻呂を右大臣に任じ、正六位上穂積朝臣山守や従六位上采女朝臣枚夫、従六位下曽祢連足人、従六位上石上朝臣豊庭らに従五位下を授ける。

慶雲元(704)年 1月 11日 右大臣従二位石上朝臣麻呂に二千百七十戸の封戸を与える。
慶雲4(707)年 10月 3日

従五位上石上朝臣豊庭らを六月に崩御した文武天皇の造山陵司に任じ、従五位上采女朝臣枚夫らを御装司に任じる。

和銅元(708) 1月 11日 和銅に改元。従二位石上朝臣麻呂に正二位を授け、正六位上阿刀宿祢智徳に従五位下を授ける。
和銅元(708)年 3月 13日 右大臣正二位石上朝臣麻呂を左大臣に任じる。
和銅元(708)年 7月 15日 天皇、二品穂積親王・左大臣石上朝臣麻呂らを召し、日頃の務めを労うとともに、天皇の意を汲み各自努力することを詔する。
和銅2(709)年 1月 9日 従六位下穂積朝臣老に従五位下を授ける。
和銅2(709)年 3月 23日

はじめて造雑物法用司を置き、従五位上采女朝臣枚夫らを任じる。

和銅2(709)年 6月 28日 従七位下の殖栗物部名代に殖栗連の姓を賜る。
和銅3(710)年 1月 1日 天皇、朝賀を受ける。隼人と蝦夷も参列し、これを朱雀大路に率いて進む左の副将軍に従五位下穂積朝臣老。
和銅3(710)年 3月 10日 平城遷都。左大臣正二位石上朝臣麻呂を藤原京の留守司とする。
和銅3(710)年 4月 23日

従五位上采女朝臣比良夫(枚夫)を近江守に任じる。

和銅4(711)年 4月 7日 従五位上石上朝臣豊庭に従四位下を授け、従五位上采女朝臣比良夫(枚夫)と従五位上曽祢連足人に正五位下を授ける。
和銅4(711)年 9月 4日 造都の労役から逃亡した民が多いため治安が悪く、未完成の平城宮の防衛も不十分なので、従四位下石上朝臣豊庭を将軍として兵器庫を守らせる。
和銅4(711)年 10月 23日 品や位による俸禄の支給規定を定める。罪人を扱う物部には絹糸二ク・銭十文。
和銅5(712)年 1月 19日 従五位上穂積朝臣山守に正五位下を授ける。
和銅5(712)年 1月 28日 古事記撰上。
和銅6(713)年 1月 23日 従七位下榎井朝臣広国に従五位下を授ける。
和銅6(713)年 4月 23日 従五位下穂積朝臣老に従五位上を授ける。
和銅6(713)年 5月 2日 国・郡・郷名に好字を選ばせる。風土記の編纂を命ずる。
和銅6(713)年 5月 12日 讃岐守大伴道足が寒川郡の物部乱ら二十六人が誤って飼丁の籍にあるので、良人に編入することを申請し、許可される。
和銅6(713)年 8月 26日 従五位下榎井朝臣広国を三河守に任じる。
和銅2(709)年〜和銅6(713)年? このころ石上朝臣麻呂のむすめ国盛(国守)が藤原朝臣宇合に嫁す。
和銅7(714)年 5月 27日 土佐国の人・物部毛虫唐ェ三つ子を産んだので、これに籾四十斛と乳母を賜る。
和銅7(714)年 6月 14日 物部の族に寺人姓があるのは、寺で保有される賤民や奴婢と紛らわしいため、この姓を除き本姓に改める。
和銅7(714)年 11月 26日 従四位下大伴宿祢旅人を迎新羅使左将軍に、従四位下石上朝臣豊庭を右将軍に任じる。右の副将軍は従五位上上毛野朝臣広人と従五位下粟田朝臣人上。
霊亀元(715)年 1月 10日 従四位下石上朝臣豊庭に従四位上を授け、正五位下曽祢連足人に正五位上を授ける。
霊亀元(715)年 7月 27日 知太政官事穂積親王が薨じる。従四位上石上朝臣豊庭らを遣わし、喪葬の事を監督させる。
霊亀2(716)年 4月 27日 従五位下榎井朝臣広国を丹波守に任じる。
養老元(717)年 1月 4日 従五位上穂積朝臣老に正五位下を授ける。
養老元(717)年 3月 3日 左大臣正二位石上朝臣麻呂薨じる。時に七十八歳。従一位を追贈。式部少輔正五位下穂積朝臣老、五位以上の官人の誄を行う。
養老元(717)年 11月 10日 故左大臣従一位石上朝臣麻呂の邸宅に、あしぎぬ百疋、絲四百く、白綿一千斤、布二百端を授ける。
養老元(717)年 この年、玄ムが学問僧として入唐。
養老2(718)年 1月 5日 正五位下穂積朝臣老に正五位上を授ける。
養老2(718)年 5月 30日 従四位上石上朝臣豊庭が卒する。
養老2(718)年 9月 19日 従四位上藤原朝臣武智麻呂を式部卿に、正五位上穂積朝臣老を式部大輔に任じる。
養老3(719)年 1月 13日 従六位下石上朝臣堅魚に従五位下を授ける。
養老3(719)年 5月 15日 従八位上中臣習宜連笠麻呂ら四人、従六位上中臣熊凝連古麻呂ら七人、および従八位下榎井連弄麻呂に、朝臣の姓を、大初位下若湯坐連家主、正八位下阿刀連人足ら三人に宿祢の姓を賜る。
養老4(720)年 1月 11日 従五位下榎井朝臣広国に従五位上を授ける。
養老4(720)年 5月 21日 日本書紀完成。
養老4(720)年 8月 3日 藤原朝臣不比等薨じる。
養老5(721)年 1月 23日 正六位上越智直広江らを退朝後は皇太子(首皇子)に侍らせることとする。
養老5(721)年 1月 27日 百官のうち学業を深く修めた人に褒章。明経第一博士の正六位上越智直広江に、あしぎぬ二十疋・絲二十く・布三十端・鍬二十口を与え、明法の正六位上箭集宿祢虫万呂にはあしぎぬ十五疋・絹糸十五絇・麻布三十端・鍬二十口を与える。
養老6(722)年 1月 20日 正五位上穂積朝臣老は天皇を名指しで非難した罪により斬刑に処されるはずが、首皇太子の奏言により死一等を減じて、佐渡嶋に流される。
養老6(722)年 2月 27日 養老律令選定の功績により正六位上矢集宿祢虫麻呂に田五町を賜る。
養老7(723)年 1月 10日 正六位下越智直広江に従五位下を授ける。
養老7(723)年 3月 23日 常陸国信太郡の人、物部国依に信太連の姓を賜る
神亀元(724)年 2月 22日

従五位上榎井朝臣広国に正五位下を、正六位下石上朝臣乙麻呂に従五位下を授ける。
外従七位上香取連五百嶋らに外従五位下を授ける(私穀を陸奥国の鎮所に献じたため)。

神亀元(724)年 5月 13日 正六位上の物部用善に物部射園連の姓を賜る。
神亀元(724)年 11月 23日 聖武天皇即位の大嘗祭。従五位下石上朝臣勝男・石上朝臣乙麻呂、従六位上石上朝臣諸男、従七位上榎井朝臣大嶋ら、内物部を率いて神楯を斎宮の南北の二門に立てる。
神亀3(726)年 1月 21日 従五位下石上朝臣勝魚に従五位上を授ける。
神亀4(727)年 1月 27日 正五位下榎井朝臣広国に正五位上を授ける。
神亀5(728)年 5月 21日 正六位上若湯坐宿祢小月に外従五位下を授ける。
神亀5(728)年 5月?   式部大輔石上朝臣堅魚、勅使として大宰府へ遣わされ、妻大伴郎女を失った大宰帥大伴宿祢旅人を弔問する。
天平元(729)年 2月 10日 長屋王の変。
天平元(729)年 8月 5日 正五位上榎井朝臣広国に従四位下を授ける。
天平3(731)年 1月 27日 従五位上石上朝臣勝雄に正五位下を、正六位上の箭集宿祢虫麻呂、物部韓国連広足に外五位下を授ける。
天平4(732)年 1月 20日 従四位下榎井朝臣広国に従四位上を、従五位下石上朝臣乙麻呂に従五位上を授ける。
天平4(732)年 5月 1日 正六位下の物部依羅連人会に朝臣の姓を賜る。
天平4(732)年 9月 5日 外従五位下箭集宿祢虫麻呂を大判事に、従四位上榎井朝臣広国を大倭守に、従五位上石上朝臣乙麻呂を丹波守に任じる。
天平4(732)年 10月 17日 外従五位下箭集宿祢虫麻呂を大学頭に、外従五位下物部韓国連広足を典薬頭に任じる。
天平7(735)年 この年、玄ムが諸仏像と経論五千余巻をともなって唐から帰国。
天平8(736)年 1月 21日 正五位下石上朝臣勝雄に正五位上を、従五位上石上朝臣乙麻呂に正五位下を授ける。
天平8(736)年 2月 7日 玄ムに封戸百戸・田十町・童子八人を与える。
天平9(737)年 2月 14日

従五位下曽祢連五十日虫に従五位上を授ける。

天平9(737)年 8月 26日 玄ムを僧正に任じる。
天平9(737)年 8月 28日 正五位下石上朝臣乙麻呂に正五位上を、正六位上穂積朝臣老人と正六位下中臣熊凝朝臣五百嶋に外従五位下を授ける。
天平9(737)年 12月 23日 外従五位下中臣熊凝朝臣五百嶋を皇后宮員外亮に任じ、外従五位下穂積朝臣老人を左京亮に任じる。
天平9(737)年 12月 27日 聖武天皇と皇太夫人(藤原宮子)が皇后宮で対面。皇太夫人を看病した玄ムに絁千匹・真綿千屯・絹糸千絇・麻布千端を与える。
天平10(738)年 1月 13日 阿倍内親王立太子。正五位上石上朝臣乙麻呂に従四位下を授ける。
天平10(738)年 1月 26日 従四位下石上朝臣乙麻呂を左大弁に任じる。
天平10(738)年 閏7月 7日 外従五位下中臣熊凝朝臣五百嶋を摂津亮に任じる。
天平10(738)年 8月 10日 外従五位下中臣熊凝朝臣五百嶋を皇后宮亮に任じる。
天平11(739)年 1月 13日 正六位下の物部依羅朝臣人会に外従五位下を、無位の采女朝臣首名・采女朝臣若に従五位下を授ける。
天平11(739)年 3月 28日 故藤原朝臣宇合の室・久米連若売と姦通した罪により、石上朝臣乙麻呂を土佐国に配流。
天平12(740)年 6月 15日 大赦があり、流人の穂積朝臣老ら赦され京に戻る。ただし石上朝臣乙麻呂は赦の中に入れられず。
天平12(740)年 9月 3日 大宰少弐藤原朝臣広嗣が挙兵。
天平12(740)年 11月 21日 伊勢国鈴鹿郡の赤坂頓宮にて、外従五位下の物部依羅朝臣人会に外従五位上を授ける。
天平13(741)年 3月 24日 国分寺建立の詔。
天平13(741)年 9月 8日  恭仁京遷都に伴う大赦。石上朝臣乙麻呂も赦される。
天平14(742)年 1月 1日 百官朝賀。大極殿が未完成のため四阿殿を仮に造る。石上・榎井の両氏が大楯槍を立てる。
天平14(742)年 4月 10日 外従七位下日下部直益人に伊豆国造伊豆直の姓を賜る。
天平14(742)年 4月 20日 皇后宮亮の外従五位下中臣熊凝朝臣五百嶋に従五位下を授ける。
天平15(743)年 5月 5日 群臣を内裏に召して宴を催し、皇太子阿倍内親王が五節の舞を行う。従四位下石上朝臣乙麻呂に従四位上を授ける。
天平16(744)年 2月 2日 天皇は難波宮に行幸中。大蔵大輔正五位上穂積朝臣老ら五人を恭仁宮の留守官に任じる。
天平16(744)年 3月 11日 前月に皇都に定められた難波宮の中外門に、石上・榎井の二氏が大楯槍を立てる。
天平16(744)年 9月 15日 巡察使を畿内と七道に派遣。従四位上石上朝臣乙麻呂は西海道使。
天平17(745)年 1月 1日 紫香楽宮に遷都。大楯槍を立てる任にある石上氏・榎井氏は急な造都で集めることができなかったため、大伴宿祢牛養と佐伯宿祢常人を代役とする。
天平17(745)年 1月 7日 外従五位下箭集宿祢堅石に従五位上を授け、正六位下熊野直広浜と正六位下若湯坐宿祢継女に外従五位下を授ける。
天平17(745)年 8月 9日 従五位下中臣熊凝朝臣五百嶋の名から中臣を除いて熊凝朝臣とする。
天平17(745)年 11月 2日 玄ムを筑紫の観世音寺に派遣し造営にあたらせる。
天平17(745)年 11月 17日 玄ムに与えられていた封戸と財物を没収。
天平18(746)年 1月 7日 この時までに石上朝臣乙麻呂が遣唐大使に任じられる。(後に遣唐が中止)
天平18(746)年 4月 4日 従四位上石上朝臣乙麻呂を常陸守に任じる。
天平18(746)年 4月 22日 従四位上石上朝臣乙麻呂に正四位下を、外従五位下穂積朝臣老人と正六位上采女朝臣人に従五位下を授ける。
天平18(746)年 5月 7日 外従五位上の物部依羅朝臣人会に従五位下を授ける。
天平18(746)年 6月 18日 玄ム死す。俗姓阿刀氏。
天平18(746)年 6月 21日 従五位下物部依羅朝臣人会を信濃守とする。
天平18(746)年 9月 19日 従五位下穂積朝臣老人を内蔵頭に任じる。
天平18(746)年 9月 20日 正四位下石上朝臣乙麻呂を右大弁に任じる。
天平19(747)年 1月 20日 無位穂積朝臣多理に従五位下を授ける。
天平20(748)年 2月 19日 正四位下石上朝臣乙麻呂に従三位を授ける。
天平20(748)年 2月 22日 東大寺に寄進した外大初位下物部連族子嶋に外従五位下を授ける。
天平20(748)年 4月 22日 前日に元正太上天皇崩御。従三位石上朝臣乙麻呂を御装束司に任じる。
天平勝宝元(749)年 4月 1日 陸奥国小田郡で黄金産出の報を聞き天皇は東大寺に行幸。従三位中務卿石上朝臣乙麻呂が宣命を述べる。無位石上朝臣国守に従五位下を授ける。
天平勝宝元(749)年 7月 2日 阿倍内親王即位(孝謙天皇)。従三位石上朝臣乙麻呂を中納言に任じる。
天平勝宝2(750)年 9月 1日 中納言従三位兼中務卿石上朝臣乙麻呂が薨じる。
天平勝宝3(751)年 1月 25日 正六位下石上朝臣宅嗣に従五位下を授ける。
天平勝宝3(751)年 7月 7日

女嬬の無位刑部勝麻呂に外従五位下を授ける。

天平勝宝3(751)年 11月   懐風藻成る。
天平勝宝4(752)年 4月 9日 東大寺大仏開眼供養。
天平勝宝4(752)年 5月 21日 官奴の鎌取を良民とし巫部宿祢の氏姓を賜る。
天平勝宝6(754)年 1月 16日 正六位上物部山背に外従五位下を授ける。
天平勝宝8(756)年 2月 2日 橘諸兄、左大臣を辞任。
天平宝字元(757)年 5月 20日 藤原朝臣仲麻呂を紫微内相に任じる。従五位下石上朝臣宅嗣に従五位上を、正六位上榎井朝臣小祖父に従五位下を授ける。
天平宝字元(757)年 6月 16日 従五位上石上朝臣宅嗣を相模守に任じ、従五位下榎井朝臣子祖父を豊後守に任じる。
天平宝字元(757)年 7月 4日 橘奈良麻呂が藤原朝臣仲麻呂の専制に対して決起しようとするも失敗する。
天平宝字元(757)年 8月 4日

正六位上采女朝臣浄庭に従五位下を授ける。

天平宝字元(757)年 8月 13日 駿河国益頭郡の人・金刺舎人麻呂が蚕卵が自然に字の形を描いたものを献上。
天平宝字元(757)年 8月 18日 瑞兆を献じた白丁の金刺舎人麻呂に従六位上を授け、あしぎぬ二十匹・調の真綿四十屯・調の麻布八十端・正税稲二千束を給う。
天平宝字元(757)年 12月 9日 功田の等級を定める。養老律令選定の功で矢集宿祢虫麻呂が賜った田五町は、子の代まで相続させる。
天平宝字2(758)年 8月 1日 大炊王即位(淳仁天皇)。正六位下穂積朝臣小東人に従五位下を授ける。
天平宝字3(759)年 5月 17日 従五位上石上朝臣宅嗣を三河守に任じ、従五位下穂積朝臣小東人を周防守に任じる。
天平宝字4(760)年 1月 21日 河内少掾従六位上石上朝臣奥継を北陸道巡察使に任じる。
天平宝字4(760)年 5月 3日 従五位下石上朝臣国守に従五位上を授ける。
天平宝字5(761)年 1月 16日 従五位上石上朝臣宅嗣を上総守に任じる。
天平宝字5(761)年 5月 23日 散位外五位下物部山背を遣わして、畿内の溜池・井堰・堤防・用水路の適地を視察させる。
天平宝字5(761)年 6月 26日 従五位上熊野直広浜の位一階昇進。
天平宝字5(761)年 9月 4日

命婦の従三位曽祢連伊賀牟志が薨じる。

天平宝字5(761)年 10月 1日 従五位下榎井朝臣子祖父を仁部少輔に任じる。
天平宝字5(761)年 10月 22日 右虎賁衛(兵衛府)督従四位下仲真人石伴を遣唐大使に、上総守従五位上石上朝臣宅嗣を遣唐副使に任じる。
天平宝字6(762)年 1月 4日 正六位上石上朝臣奥継に従五位下を授ける。
天平宝字6(762)年 1月 9日 従五位下石上朝臣奥継を播磨介に任じる。
天平宝字6(762)年 3月 1日 従五位上石上朝臣宅嗣の遣唐副使の任を解き、代わりに藤原朝臣田麻呂を任じる。
天平宝字7(763)年 1月 9日 無位石上朝臣糸手に従五位下を授ける。従五位上石上朝臣宅嗣を侍従兼任のまま文部(式部)大輔に任じる。
天平宝字7(763)年 4月   藤原朝臣宿奈麻呂(良継)・石上朝臣宅嗣らの藤原仲麻呂打倒計画失敗。
天平宝字7(763)年 4月 14日 従五位下石上朝臣奥継を少納言に任じ、従五位下榎井朝臣小祖父を仁部(民部)少輔に任じる。
天平宝字7(763)年 9月 4日

慈訓の少僧都を解任し、道鏡を任じることを興福寺(山階寺)へ使者を遣わして詔する。

天平宝字7(763)年 9月 15日

従五位下采女朝臣浄庭を豊後守に任じる。

天平宝字8(764)年 1月 21日 従五位下穂積朝臣小東人を木工助に任じ、従五位上石上朝臣宅嗣を大宰少弐に任じる。
天平宝字8(764)年 7月 6日

授刀少志従八位上弓削連浄人に弓削宿祢の姓を賜る。

天平宝字8(764)年 9月 11日

恵美押勝の乱はじまる。孝謙上皇は山村王を淳仁天皇の御所に遣わし駅鈴・内印を奪取。押勝がこれを回収させようと遣わした中衛将監矢田部老は授刀舎人紀船守に射殺される。従八位上弓削宿祢浄人に従四位下を授け、弓削御浄朝臣の姓を賜る。押勝はこの夜近江に逃走。

天平宝字8(764)年 9月 12日

正六位上刑部息麻呂に外従五位下を授ける。

天平宝字8(764)年 9月 18日 恵美押勝敗死し、その首が京師に伝達される。愛発の関に入ろうとする押勝の軍を撃退したのは、授刀舎人の物部広成ら。
天平宝字8(764)年 9月 20日

道鏡を大臣禅師に任じる。

天平宝字8(764)年 10月 3日 従五位上石上朝臣宅嗣に正五位上を授け、常陸守に任じる。従五位下采女朝臣浄庭を大宰少弐に任じる。
天平宝字8(764)年 10月 7日

正六位上石上朝臣家成と弓削宿祢薩摩に従五位下を授け、正六位上弓削連耳高と矢集宿祢大唐に外従五位下を授け、外従五位下漆部直伊波に従五位下を授け、正六位上漆部宿祢道麻呂と正六位上田部宿祢男足に外従五位下を授ける。

天平宝字8(764)年 10月 8日

無位の弓削宿祢美努久女・乙美努久女・刀自女に従五位下を授ける。

天平宝字8(764)年 10月 20日

衛門督従四位下弓削御浄朝臣浄人に上総守を兼任させる。

天平宝字8(764)年 10月 28日

従五位下弓削宿祢薩摩を下野員外介に任じる。

天平宝字8(764)年 11月 12日 従五位下石上朝臣息継に正五位下を授ける。
天平神護元(765)年 1月 7日

正五位上石上朝臣宅嗣に従四位下を授け、従五位下の穂積朝臣小東人と榎井朝臣小祖に従五位上を授け、正六位上中臣習宜朝臣山守に従五位下を授け、従六位下の弓削御清朝臣秋麻呂と弓削宿祢牛養に従五位下を授け、正六位上若湯坐宿祢子人と正六位上田部宿祢足嶋と正六位上金刺舍人八麻呂に外従五位下を授ける。従四位下弓削御清朝臣浄人に勲三等を授ける。正五位下熊野直広浜に正五位上を授ける。外従五位下金刺舎人八麻呂に勲六等を授ける。

天平神護元(765)年 2月 2日

従四位下弓削御浄朝臣浄人に従四位上を授ける。

天平神護元(765)年 2月 5日

従五位下弓削宿祢牛養を近衛少将に任じる。

天平神護元(765)年 2月 8日 従四位下石上朝臣宅嗣を常陸守兼任で中衛中将に任じ、従五位下弓削御浄朝臣秋麻呂を右兵衛佐に任じる。
天平神護元(765)年 2月 10日

摂津国嶋下郡の人で右大舎人の采女臣家麻呂と、采女司の采部の采女臣家足ら四人に朝臣の姓を賜る。

天平神護元(765)年 3月 10日

大宰少弐・従五位下采女朝臣浄庭を水城を修理する専知官に任じる。

天平神護元(765)年 10月 22日 淡路で幽閉中の淳仁天皇が逃亡を図るが掾の高屋連並木らが率いる兵によって阻止される。
紀伊国牟婁の采女・正五位上熊野直広浜に従四位下を授ける。
天平神護元(765)年 閏10月 3日 河内国のこの年の調を免除し、大県・若江の二郡は田祖も免除。河内国守の正五位下石上朝臣息嗣に正五位上を授ける。
天平神護元(765)年 11月 1日 上野国甘楽郡の人、中衛物部蜷淵ら五人に物部公の姓を賜る。
天平神護元(765)年 11月 23日

従五位下越前介弓削宿祢牛養に従五位上を授ける。同月六日に越前国は称徳天皇の大嘗祭の須伎に定められていたため。

天平神護2(766)年 1月 8日 右大弁従四位上石上朝臣宅嗣を参議に任じる。
天平神護2(766)年 4月 29日 石上朝臣志斐弖が生んだ聖武天皇の皇子と称する男が現れるが、詐欺であったので遠流に処する。
天平神護2(766)年 5月 20日 上野国甘楽郡の人、外大初位下磯部牛麻呂ら四人に物部公の姓を賜る。
天平神護2(766)年 6月 1日 正六位上中臣習宜朝臣阿曽麻呂に従五位下を授ける。
天平神護2(766)年 10月 19日

正六位上弓削御浄朝臣塩麻呂に従五位下を授ける。

天平神護2(766)年 10月 20日

道鏡、法王となる。隅寺の舎利を法華寺に安置。基真禅師を法参議・大律師として正四位上を授け、物部浄之の朝臣の姓を授ける。従三位参議弓削御浄朝臣浄人に正三位を授け中納言に任じる。

天平神護2(766)年 10月 25日 従四位上石上朝臣宅嗣に正四位下を授ける。
神護景雲元(767)年 1月 18日 正六位上の弓削御浄朝臣広方と石上朝臣真足に従五位下を授け、正六位上高屋連赤麻呂に外従五位下を授ける。
神護景雲元(767)年 1月 19日 正六位上榎井朝臣祖足に従五位下を授ける。
神護景雲元(767)年 2月 20日 伊予国越智郡の大領・外正七位下越智直飛鳥麻呂があしぎぬ二百三十疋・銭千二百貫を献上したので、外従五位下を授ける。
神護景雲元(767)年 3月 9日 大安寺に天皇行幸。造寺大工の正六位上軽間連鳥麻呂に外従五位下を授ける。
神護景雲元(767)年 3月 20日 従五位下石上朝臣真足を内匠助に任じ、従五位下榎井朝臣祖足を木工助に任じる。
神護景雲元(767)年 6月 3日 伊予国の人で白丁の越智直国益が献物したため外従五位下を授ける。
神護景雲元(767)年 7月 10日 従五位下弓削御浄朝臣秋麻呂を左少弁、従五位下石上朝臣真足を大監物とする。内竪省を新設し正三位弓削御浄朝臣浄人を卿とする。近衛従八位下物部磯浪は天平宝字八年の恵美押勝の乱で、駅鈴と内印が奪われようとしたとき、いち早く駆けつけ急を告げた。その時の功により外従五位下を授ける。
神護景雲元(767)年 7月 24日 河内国志紀郡の人・従六位上依羅造五百世麻呂、丹比郡の人・従六位下依羅造里上ら十一人に依羅連の姓を賜る。
神護景雲元(767)年 8月 11日 従五位上榎井朝臣子祖を兵部大輔に任じ、従五位下弓削宿祢大成を因幡掾に任じる。
神護景雲元(767)年 8月 21日 従五位上近衛少将弓削宿祢牛養に越前介を兼任させる。
神護景雲元(767)年 8月 29日 従五位下弓削宿祢薩摩を陰陽助に任じ、従五位下弓削御浄朝臣広方を武藏国の員外介に任じる。
神護景雲元(767)年 9月 4日 従五位下中臣習宜朝臣阿曽麻呂を豊前介に任じる。
神護景雲元(767)年 10月 18日 無位石上朝臣等能能古に従五位上を授け、無位の弓削御浄朝臣美夜治と弓削御浄朝臣等能治に従五位下を授ける。
神護景雲元(767)年 10月 壬戌?

外従五位下田部宿祢男足に従五位下を授ける。

神護景雲2(768)年 1月 10日 正四位下石上朝臣宅嗣に従三位を授ける。
神護景雲2(768)年 2月 18日

正三位弓削御浄朝臣清人を内竪卿・衛門督・上総守兼任のまま大納言に任じ、従五位上榎井朝臣子祖を宮内大輔に任じ、従五位下弓削御浄朝臣塩麻呂を左兵衛督に任じ、従五位下石上朝臣真足を遠江介に任じ、従五位下田部宿祢男足を主計助に任じる。

神護景雲2(768)年 2月 19日

無位の弓削御浄朝臣浄方に従五位下を授ける。

神護景雲2(768)年 3月 20日 私財を献じた外正八位上越智直蜷淵らに外従五位下を授ける。
神護景雲2(768)年 4月 12日

従五位下弓削御浄朝臣広方を近衛将監兼任のまま武蔵介に任じる。

神護景雲2(768)年 6月 26日 従五位下石上朝臣家成を上総守に任じる。
神護景雲2(768)年 閏6月 8日 私財を献じた外正八位下物部孫足に外従五位下を授ける。
神護景雲2(768)年 7月 11日 武蔵国入間郡の人、正六位上勲五等物部直広成ら六人に、入間宿祢の姓を賜る。
神護景雲2(768)年 7月 30日 正六位下安都宿祢豊嶋に外従五位下を授ける。
神護景雲2(768)年 10月 24日 石上神宮に封五十戸を充てる。大宰府の綿を弓削御浄朝臣清人に一万屯、式部卿従三位石上朝臣宅嗣に四千屯賜る。
神護景雲2(768)年 11月 13日

従五位下石上朝臣家成を勅旨少輔に任じ、正五位上石上朝臣息継を河内守兼任で左衛士督に任じ、大納言衛門督正三位弓削御浄朝臣清人を大宰帥に任じる。

神護景雲2(768)年 11月 29日 正三位弓削御浄朝臣清人を検校兵庫将軍に任じる。
神護景雲2(768)年 12月 4日 僧基真、その師の法臣円興をあなどり欺いたことから、飛騨国に退けられる。
神護景雲3(769)年 1月 3日

法王道鏡、西宮の前殿で大臣以下の拝賀を受ける。

神護景雲3(769)年 1月 7日

天皇、法王宮へ出御。道鏡は五位以上の官人に摺衣を各一領、蝦夷に緋袍を各一領与える。

神護景雲3(769)年 3月 28日 従五位上榎井朝臣子祖を山背守に任じる。
神護景雲3(769)年 4月 6日

散事で従四位下の牟漏の采女・熊野直広浜が卒する。

神護景雲3(769)年 4月 24日 天皇、西大寺に行幸。従五位下弓削宿祢大成に従五位上を授ける。
神護景雲3(769)年 6月 9日 従五位下弓削御浄朝臣広方を武藏介兼任で右兵衛佐に任じ、正五位上石上朝臣息嗣を美濃守に任じ、従五位下弓削宿祢薩摩を能登員外介に任じ、左少弁従五位下弓削御浄朝臣秋麻呂に周防守を兼任させる。
神護景雲3(769)年 6月 26日 備前国御野郡の人、物部麻呂ら六十四人に石生別公の姓を賜る。
神護景雲3(769)年 7月 17日 左京の人・阿刀造子老ら五人に阿刀宿祢の姓を賜る。
神護景雲3(769)年 8月 19日

従五位上弓削宿祢大成を信濃員外介に任じ、外従五位下田部宿祢足嶋を淡路守に任じる。

神護景雲3(769)年 10月 17日 天皇、由義宮に行幸。
神護景雲3(769)年 10月 30日 正三位弓削御浄朝臣清人に従二位を授け、従五位上弓削御浄朝臣広方に正五位下を授け、従五位下の弓削御浄朝臣秋麻呂と弓削御浄朝臣塩麻呂に従五位上を授け、無位弓削御浄朝臣広津に従五位下を授ける。従五位上の弓削御浄朝臣美努久売と乙美努久売に正五位下を授け、無位弓削宿祢東女に従五位下を授ける。
宝亀元(770)年 4月 8日

弓削氏の男女に身分に応じて物を賜る。

宝亀元(770)年 4月 11日

従五位上弓削宿祢牛養ら九人に弓削朝臣の姓を賜り、外従五位下弓削連耳高ら三十八人に宿祢の姓を賜り、正八位上矢作造辛国に宿祢の姓を賜る。しかし、道鏡失脚によりまもなく皆もとの姓に戻されたという。

宝亀元(770)年 6月 3日

従五位上弓削御浄朝臣秋麻呂を大蔵少輔に任じる。

宝亀元(770)年 7月 29日 今良大目の東人の子・秋麻呂ら六十八人に若桜部、真髪部、石上部、宇治部、穂積部、伊福部、采女部などの氏姓を賜る。
宝亀元(770)年 8月 4日 称徳天皇崩御。参議式部卿従三位石上朝臣宅嗣らが禁中で協議し、白壁王を立てて皇太子とする。
宝亀元(770)年 8月 17日

称徳天皇を高野山陵に葬る。道鏡は山陵に仕えて留まる。

宝亀元(770)年 8月 21日

道鏡を下野国薬師寺別当として左遷するようにとの皇太子(白壁王)の令旨。従五位下中臣習宜朝臣阿曽麻呂を多ネ嶋守に任じる。

宝亀元(770)年 8月 22日

道鏡の弟の弓削浄人と、その子の広方・広田・広津を土佐国へ流す。

宝亀元(770)年 9月 12日 基真(基信)の親族である近江国の人、従八位下物部宿祢伊賀麻呂ら三人を、宿祢をはずし元の物部の姓に戻す。
宝亀元(770)年 9月 16日 従五位上榎井朝臣子祖を上総守に任じ、従三位石上朝臣宅嗣を大宰帥に任じる。
宝亀元(770)年 10月 1日 光仁天皇即位。従五位下石上朝臣家成に従五位上を授ける。
宝亀元(770)年 10月 26日 外散位・外従五位下の越智直飛鳥麻呂・越智直南淵麻呂に外従五位上を授ける。
宝亀2(771)年 1月 23日 勅旨少輔従五位上石上朝臣家成に春宮員外亮を兼任させる。
宝亀2(771)年 2月 11日 外従五位下物部磯波を左兵衛大尉に任じる。
宝亀2(771)年 3月 13日 藤原朝臣良継を内臣に任じ、従三位石上朝臣宅嗣を式部卿に任じる。
宝亀2(771)年 閏3月 1日 正五位上石上朝臣息継を丹波守に任じる。
宝亀2(771)年 閏3月 22日 外従五位下伊豆国造伊豆直乎美奈に従五位下を授ける。
宝亀2(771)年 9月 16日

従五位上榎井朝臣子祖を造宮大輔に任じ、従五位下田部宿祢男足を典薬員外助に任じる。

宝亀2(771)年 11月 21日 太政官院にて大甞祭の神事を行う。参議従三位式部卿石上朝臣宅嗣、丹波守正五位上石上朝臣息嗣、勅旨少輔兼春宮員外亮従五位上石上朝臣家成、散位従七位上榎井朝臣種人が神楯桙を立てる。
宝亀2(771)年 11月 23日 従三位石上朝臣宅嗣を中納言に任じる。
宝亀2(771)年 11月 25日 正五位上石上朝臣息嗣に従四位下を授け、正六位上阿刀宿祢真足に外従五位下を授ける。
宝亀2(771)年 11月 26日 正六位上日下部直安提麻呂に外従五位下を授ける。
宝亀3(772)年 1月 3日 正六位上石上朝臣継足に従五位上を授ける。
宝亀3(772)年 1月 10日 正六位上若湯坐宿祢子虫に外従五位下を授ける。
宝亀3(772)年 3月 2日 井上内親王が謀反を企んだことにより、皇后の地位から追われる。安都堅石女を内親王に呪詛の罪があることを知りながら隠していたため遠流の刑に処す。
宝亀3(772)年 4月 7日

下野国から薬師寺別当の道鏡が死んだことが報告され、庶民としての待遇で葬る。

宝亀3(772)年 4月 20日 外従五位下安都宿祢真足を大学助に任じ、従五位下石上朝臣継足を主税頭に任じる。
宝亀3(772)年 6月 6日 従五位下中臣習宜朝臣阿曽麻呂を大隅守に任じる。
宝亀3(772)年 9月 26日 従五位上石上朝臣家成を南海道に派遣し政情を調査させる。
宝亀3(772)年 11月 1日 外従五位下日下部直安提麻呂を内匠員外助に任じ、外従五位下軽間連鳥麻呂を修理次官に任じる。
宝亀3(772)年 12月 6日 武蔵国入間郡の人・矢田部黒麻呂の父母への孝行を顕彰するためその戸の雑徭を免除。
宝亀4(773)年 10月 14日 天皇の同母姉・難波内親王が薨じたため、中納言従三位兼式部卿石上朝臣宅嗣らを遣わし弔意を表わす。
宝亀5(774)年 1月 7日

従五位上榎井朝臣子祖に正五位下を授ける。

宝亀5(774)年 3月 5日 従四位下石上朝臣息継を大蔵卿に任じ、外従五位下阿刀宿祢真足を安芸介に任じる。
宝亀5(774)年 9月 4日

従五位上弓削宿祢塩麻呂を右京亮に任じる。

宝亀6(775)年 1月 16日 従五位下中臣習宜朝臣山守に従五位上を授け、正六位上越智直入立に外従五位下を授ける。
宝亀6(775)年 2月 8日 天平宝字八年に弓削宿祢を弓削御清朝臣に、弓削連を弓削宿祢にしていたが、元に戻す。
宝亀6(775)年 9月 13日 従五位上弓削宿祢塩麻呂を豊前守に任じる。
宝亀6(775)年 12月 25日 情願により、従三位石上朝臣宅嗣に物部朝臣の姓を賜る。
宝亀7(776)年 3月   このころ物部朝臣宅嗣が皇太子山部親王の傅に任じられる。
宝亀7(776)年 1月 7日 従五位上石上朝臣家成に正五位下を授け、正六位上刑部大山に外従五位下を授ける。
宝亀7(776)年 1月 19日 正五位下石上朝臣家成を東山道検税使に任じる。
宝亀7(776)年 3月 4日

宝亀六年二月に弓削宿祢を弓削連に戻したが、故・従五位下弓削宿祢薩摩はそのまま宿祢の姓で改めることがないようにとの勅。

宝亀7(776)年 3月 6日 従四位下石上朝臣息嗣を造東大寺長官に任じ、従五位下矢集宿祢大唐を能登守に任じる。
宝亀8(777)年 1月 3日 藤原朝臣良継が内大臣になる。
宝亀8(777)年 1月 7日 従四位下石上朝臣息嗣に従四位上を授け、正五位下榎井朝臣子祖に正五位上を授ける。
宝亀8(777)年 5月 13日 勅旨少録・正六位上丹比新家連稲長と大膳膳部・大初位下東麻呂に丹比宿祢の姓を賜る。
宝亀8(777)年 6月 24日 佐伯今毛人が病のため大使不在のまま遣唐使船が出帆。録事に韓国連源。
宝亀8(777)年 9月 18日 内大臣従二位藤原朝臣良継薨じる。中納言従三位物部朝臣宅嗣らを弔に遣わす。
宝亀8(777)年 10月 13日 中納言従三位物部朝臣宅嗣、中務卿を兼任。従四位上石上朝臣息嗣を太宰大弐に任じる。
宝亀8(777)年 11月 8日 左京の人、正八位下多芸連国足ら二人に物部多芸宿祢の姓を、美濃国多芸郡の人、物部坂麻呂ら九人に物部多芸連の姓を賜る。
宝亀9(778)年 1月 13日 唐の長安城に遣唐副使小野朝臣石根・大神朝臣末足、録事韓国連源らが到着。
宝亀9(778)年 1月 25日 女孺で無位の物部得麻呂に外従五位下を授ける。
宝亀9(778)年 2月 23日 正五位下石上朝臣家成を宮内大輔に任じる。
宝亀9(778)年 11月 13日 韓国連源らが乗った遣唐第四船が薩摩国甑島に到着。
宝亀10(779)年 1月 23日

正六位上采女朝臣宅守らに従五位下を授ける。

宝亀10(779)年 5月 17日 唐使を朝堂で饗応。中納言従三位物部朝臣宅嗣、天皇の勅を宣べる。
宝亀10(779)年 5月 25日 唐使の孫興進らが暇乞いに拝謁。中納言従三位物部朝臣宅嗣、勅を宣べる。
宝亀10(779)年 7月 9日 藤原朝臣百川薨じる。
宝亀10(779)年 11月 18日 中納言従三位物部朝臣宅嗣に、物部朝臣を改めて石上大朝臣の氏姓を賜る。
宝亀11(780)年 2月 1日 中納言従三位石上大朝臣宅嗣を大納言に任じる。
宝亀11(780)年 3月 22日 陸奥国で伊治呰麻呂の乱。
宝亀11(780)年 7月 22日 伊予国越智郡の人・越智直静養女は私財で困窮した人民を助けたので、天平宝字八年三月二十二日の勅書により、爵二級を賜る。
天応元(781)年 4月 3日 光仁天皇が譲位し、山部皇太子即位(桓武天皇)。
天応元(781)年 4月 15日 従三位石上大朝臣宅嗣に正三位を、正七位上物部多芸宿祢国足に外従五位下を授ける。
天応元(781)年 5月 17日 中宮職を設置。外従五位下物部多芸宿祢国足を少進に任じる。
天応元(781)年 5月 25日 正五位下石上朝臣家成を民部大輔に任じ、中宮少進外従五位下物部多芸宿祢国足に因幡介を兼任させる。
天応元(781)年 6月 9日 正六位上物部射園連老に外従五位下を授ける。
天応元(781)年 6月 18日

河内国若江郡の人の弓削浄人とその子らは土佐国に流されていたが、許されて郷里に放ち還される。

天応元(781)年 6月 24日 大納言正三位兼式部卿石上大朝臣宅嗣薨じる。正二位を追贈。五十三歳。
天応元(781)年 11月 15日 五位以上の官人と宴を催す。正五位下石上朝臣家成に従四位下を授ける。
延暦元(782)年 閏1月 17日 中宮少進外従五位下物部多芸宿祢国足に越中介を兼任させ、従四位下石上朝臣家成を伊予守に任じる。
延暦元(782)年 6月 20日 外従五位下安都宿祢真足を大学助に任じ、従四位下石上朝臣家成を大宰大弐に任じる。
延暦2(783)年 1月 16日 正六位上穂積朝臣賀コに従五位下を授ける。
延暦2(783)年 2月 5日 外従五位下若湯坐宿祢子虫に従五位下を授ける。
延暦2(783)年 2月 25日 外従五位下物部多芸宿祢国足を中宮大進に任じ、従五位下穂積朝臣賀コを主税頭に任じる。
延暦2(783)年 4月 20日 越智池を築いた功により正六位上贄田物部首年足に外従五位下を授ける。
延暦2(783)年 5月 15日 従四位下石上朝臣家成を造東大寺長官に任じる。
延暦2(783)年 11月 12日 外従五位下阿刀宿祢真足を主計頭に任じる。
延暦3(784)年 1月 7日 外従五位下阿刀宿祢真足に従五位下を授ける。
延暦3(784)年 7月 13日 従四位下石上朝臣家成を内蔵頭に任じ、従五位下穂積朝臣賀コを散位頭に任じる。
延暦3(784)年 11月 11日 長岡京に遷都。
延暦4(785)年 1月 1日 天皇大極殿に出御して朝賀を受け、石上・榎井の二氏が桙楯を立てる。
延暦4(785)年 1月 27日

従五位上弓削宿祢大成を西市正に任じる。

延暦4(785)年 9月 23日 藤原朝臣種継暗殺される。
延暦4(785)年 9月 27日 造東大寺長官内蔵頭従四位下石上朝臣家成に衛門権督を兼任させる。
延暦4(785)年 10月 12日

従五位上弓削宿祢塩麻呂を造東大寺次官に任じる。

延暦5(786)年 1月 7日 外従五位下物部多芸宿祢国足に従五位下を授ける。
延暦5(786)年 2月 17日 従四位下石上朝臣家成を衛門督に任じる。
延暦5(786)年 8月 8日 中宮大進従五位下物部多芸宿祢国足に常陸大掾を兼任させる。
延暦5(786)年 10月 21日 常陸国信太郡の大領外正六位上物部志太連大成が、私物をもって民の危急を救ったため、外従五位下を授ける。
延暦6(787)年 9月 17日

従五位下采女朝臣宅守を日向守に任じる。

延暦7(788)年 3月 21日 従四位下石上朝臣家成を右衛士督に任じ、外従五位下入間宿祢広成を征東副使に任じる。
延暦8(789)年 1月 6日 正六位上の榎井朝臣靺鞨と石上朝臣乙名に従五位下を授け、正六位上韓国連源に外従五位下を授ける。
延暦8(789)年 1月 26日 従六位上石上朝臣真家に従五位下を、正六位上物部韓国連真成および従六位下采女臣阿古女に外従五位下を授ける。
延暦8(789)年 2月 10日

従五位上弓削宿祢塩麻呂を左京亮に任じる。

延暦8(789)年 3月 16日 従四位下石上朝臣家成を宮内卿に任じる。
延暦8(789)年 3月 19日 従五位下石上朝臣乙名を大監物に任じる。
延暦8(789)年 11月 9日 造宮大工正六位上物部建麻呂に外従五位下を授ける。
延暦8(789)年 12月 29日 宮内卿従四位下石上朝臣家成らを前日崩じた皇太后(高野新笠)の御葬司に任じる。
延暦8(789)年     この年、高橋氏文が奏上される。
延暦9(790)年 3月 26日 従五位下物部多芸宿祢国足に常陸大掾のまま図書助を兼任させる。
延暦9(790)年 閏3月 11日 従四位下石上朝臣家成らを前日崩じた皇后(藤原乙牟漏)の御葬司に任じる。
延暦9(790)年 10月 25日 女孺従七位上物部海連飯主に外従五位下を授ける。
延暦9(790)年 11月 10日 外従五位下韓国連源らが改氏姓の願いを言上。許可され高原連に。
延暦9(790)年 12月 19日 常陸国信太郡の大領外従五位下物部志太連大成に外従五位上を授ける。
延暦10(791)年 1月 7日 従四位下石上朝臣家成に従四位上を授け、従五位下物部多芸宿祢国足に従五位上を授け、正六位上安都宿祢長人に外従五位下を授ける。
延暦10(791)年 1月 28日 外従五位下安都宿祢長人を主税助に任じる。
延暦10(791)年 4月 18日 駿河国駿河郡の大領・正六位上金刺舎人広名を駿河国造に任じる。
延暦10(791)年 7月 29日 外従五位下安都宿祢長人を右京亮に任じる。
延暦10(791)年 9月 6日 佐渡国の物部天神を従五位下に叙する。
延暦13(794)年 10月 22日 天皇、新京へ移る。
延暦13(794)年 11月 8日 山背国を山城国に改め、新京を平安京と命名。
延暦15(796)年 7月 9日 従五位下石上朝臣宅子に従五位上を授ける。外従五位上物部多芸連建麻呂を造宮大工に任じる。
延暦15(796)年 11月 10日

無位の弓削宿祢美濃人に従五位下を授ける。

延暦16(797)年 2月 7日

従五位下弓削宿祢美濃人らの位田を男子並みに支給するようにとの勅。

延暦16(797)年 2月 17日 太政官史生従七位下安都宿祢笠主に位二階を叙する。撰日本紀所への供奉による。
延暦16(797)年 11月 5日 坂上大宿祢田村麻呂を征夷大将軍に任命する。
延暦18(799)年 1月 12日 従五位下石上朝臣真家に従五位上を授ける。
延暦18(799)年 4月 3日 故正五位下上毛野朝臣稲人の賤である宅敷女の息子二人に、物部の姓を賜る。
延暦18(799)年 6月 4日 左衛士少志・矢田部常陸麻呂を平城京に遣わし、内竪・雀部広道を逮捕させる。
延暦18(799)年 12月 29日 諸氏に本系帳の撰上を命ずる。
延暦21(802)年 8月 13日 降伏した蝦夷の首長・阿弖流為らを処刑する。
延暦22(803)年 4月 28日 典薬頭藤原貞嗣と造宮大工物部建麻呂らを遣わして、遣唐使船と破損物品を調査させる。
延暦23(804)年 2月 5日 大和国石上神宮の武器を、山城国葛野郡に運び収める。
延暦23(804)年 2月 25日 外従五位下殖栗連宗継を美濃権介に任じる。
延暦23(804)年 6月 9日 従五位下石上朝臣乙名を散位頭に任じる。
延暦23(804)年 6月 20日 散位従三位石上朝臣家成が薨じる。八十三歳。
延暦23(804)年 11月 13日 左京の人従七位下大俣連三田次に大貞連の姓を賜る。
延暦24(805)年 2月 10日 造石上神宮使正五位下石川朝臣吉備人らが、石上神宮修造に要する労務者の数を延べ十五万七千余人と上申。天皇の病は延暦二十三年の葛野への武器の運収を不当とする石上神の神意とされ、返納するための人足。
延暦24(805)年 5月 10日 土佐国香美郡の少領外従六位上物部鏡連家主に、位二階を授ける。
大同元(806)年 2月 15日 正六位上安都宿祢豊永に外従五位下を授ける。
大同元(806)年 2月 26日 故・従五位下箭集宿祢虫麻呂の功田五町を、子がいなくなったので収公する。
大同元(806)年 3月 14日 右京の人、従八位下物部首縵麻呂に高狩忌寸の姓を賜る。
大同元(806)年 3月 17日 桓武天皇崩御。
大同2(807)年 2月 13日 斎部宿祢広成、古語拾遺を撰述。
大同2(807)年 3月 3日 相模国愛甲郡の人、物部国吉女が三つ子を産んだので、稲三百束を賜る。
大同3(808)年 1月 25日 正六位上物部敏久に外従五位下を授ける。
大同3(808)年 3月 ?日 伝灯大法師仁秀が充野寺で没。俗姓は物部首、伊予国の人。
大同4(809)年 4月 30日 正六位上物部匝瑳連足継に外従五位下を授ける。
弘仁元(810)年 1月 7日 正六位上石上朝臣美奈麻呂に従五位下を授ける。
弘仁元(810)年 1月 21日 土佐国香美郡の人、物部文連全敷女に少初位上を授け、戸の田祖を終身免除。全敷女は同郡物部鏡連家主の妻。
弘仁元(810)年 8月 8日 天皇の病の快癒を祈願し、石上神宮に奉幣。
弘仁元(810)年 9月 11日 薬子の変が起こる。
弘仁元(810)年 10月 12日

正六位上采女朝臣枚麻呂に従五位下を授ける。

弘仁元(810)年 10月 21日

河内国の人、従七位下勇山国嶋、正八位上真継、従八位下文継らに、連の姓を賜る。

弘仁2(811)年 1月 29日

従六位下勇山連文継に外従五位下を授ける。

弘仁2(811)年 2月 13日

外従五位下勇山連文継を紀伝博士のまま相模権掾に任じる。

弘仁2(811)年 2月 20日

外従五位下勇山連文継を紀伝博士・相模権掾のまま大学助に任じる。

弘仁2(811)年 3月 20日 鎮守副将軍外従五位下物部匝瑳連足継らに、爾薩体・幣伊の蝦夷討滅の勅。
弘仁2(811)年 4月 4日 陸奥国の人・外正六位下志太連宮持の勇敢なことを賞して外従五位下を授ける。 
弘仁2(811)年 6月 1日 従五位下石上朝臣美奈麻呂を兵部少輔に任じる。
弘仁2(811)年 12月 13日 蝦夷討伐の功により、外従五位下物部匝瑳連足継に外従五位上を授ける。
弘仁2(811)年 閏12月 18日 大和国の人従八位下大俣連福貴麻呂に大眞連の姓を賜る。
弘仁2(811)年 閏12月 25日 正六位下物部田継に外従五位下を授ける。
弘仁3(812)年 1月 7日

正六位上の高丘宿祢弟越、勇山連家継らに外従五位下を授ける。

弘仁3(812)年 1月 8日 故・下野介外従五位上高原連源に従五位下を贈る。
弘仁3(812)年 2月 10日 外従五位上物部匝瑳連足継を鎮守将軍に任じる。
弘仁3(812)年 3月 24日

右京の人、弓削宿祢立麻呂が連理木を献上。

弘仁3(812)年 5月 3日 従六位上安都宿祢吉子に従五位下を授ける。
弘仁3(812)年 8月 1日 従五位下石上朝臣美奈麻呂を周防守に任じる。
弘仁4(813)年 1月 5日 参河国の人、外従五位下物部敏久に物部中原宿祢の姓を賜る。
弘仁4(813)年 1月 7日 外従五位上物部匝瑳連足継に従五位下を授ける。
弘仁4(813)年 1月 24日 大和国の人、従六位下物部福麻呂に広澄宿祢の姓を賜る。
弘仁4(813)年 2月 13日

外従五位下勇山連家継を大学博士に任じ、外従五位下物部中原宿祢敏久を大判事に任じる。

弘仁5(814)年 5月 8日 皇子女を臣籍降下させる詔(嵯峨源氏のはじまり)。
弘仁6(815)年 1月 7日 正六位上広澄宿祢福麻呂に外従五位下を授ける。
弘仁6(815)年 7月 2日

河内国の人、外従五位下勇山連家継、外従五位下文継、正七位上国嶋、正七位下真継らを、右京に付貫。

弘仁6(815)年 7月 20日 万多親王ら、新撰姓氏録を撰上。
弘仁6(815)年 8月 10日 外従五位下広澄宿祢福麻呂を造西寺次官に任じる。
弘仁7(816)年 1月 7日 従五位下物部匝瑳連足継に従五位上を授ける。
弘仁7(816)年 6月 15日 外従五位下勇山連文継に従五位下を授ける。天皇が『史記』を文継から学んでいたのが完了したための授位。
弘仁8(817)年〜弘仁13(822)年? このころ勇山連文継・勇山連真継らに安野宿祢の姓を賜る。
弘仁10(819)年 1月 7日 外従五位下物部中原宿祢敏久に従五位下を授ける。
弘仁11(820)年 1月 7日 正六位下越智直吉継に外従五位下を授ける。
弘仁13(822)年 1月 7日 正六位下殖栗連浄成に外従五位下を授ける。
弘仁13(822)年 6月 4日 最澄が死去。
弘仁13(822)年 10月 1日 正六位上石上朝臣雖に従五位下を授ける。
弘仁13(822)年 11月 1日 従五位下石上朝臣美奈麻呂に従五位上を授ける。
弘仁14(823)年 1月 7日

従五位下安野宿祢文継に従五位上を授け、正六位上安野宿祢真継に外従五位下を授ける。

天長元(824)年 1月 7日 従五位下物部中原宿祢敏久に従五位上を授ける。
弘仁14(823)年〜天長3(826)年? このころ物部中原宿祢敏久に興原宿祢の姓を賜る。
天長3(826)年 1月 7日

従五位下安野宿祢文継に正五位下を授ける。

天長4(827)年 1月 21日 従五位上興原宿祢敏久に正五位下を授ける。
天長4(827)年 8月 9日

東宮学士の正五位下安野宿祢文継に従四位下を授ける。

天長5(828)年 1月 7日

外従五位下安野宿祢真継に従五位下を授ける。

天長5(828)年 10月 26日

東宮学士の従四位下安野宿祢文継が卒する。五十六歳。

天長7(830)年 6月 22日 節婦風早直益吉女に位二階を叙し終身その田租を免除。
天長7(830)年 閏12月 26日 正五位下興原宿祢敏久に正五位上を授ける(格式作成の功績による)。
天長8(831)年 1月 7日 従五位上石上朝臣美奈麻呂に正五位下を授ける。
天長8(831)年 2月 16日 囚獄司の物部の定員は四十人であるが、名負氏の有資格者が足りないため、他氏からも十人採用。
天長8(831)年 8月 10日

淳和天皇が神泉苑に行幸。主税頭従五位下安野宿祢真継らを召し、春秋三伝や三礼について論議させる。

天長10(833)年 3月 6日 従五位下安野宿祢真継に従五位上を授ける。
天長10(833)年 3月 13日 従五位下春澄宿祢善縄を大内記のまま東宮学士に任じる。
承和元(834)年 1月 7日

正六位上風早直豊宗に外従五位下を授ける。

承和元(834)年 1月 12日

従五位下春澄宿祢善縄を東宮学士・大内記のまま摂津介に任じる。

承和元(834)年 5月 19日

主殿允の正六位上物部匝瑳連熊猪に外従五位下を授け、鎮守将軍に任じる。

承和元(834)年 11月 26日

囚獄司の物部が用いる刀緒の色を呉桃に定める。

承和元(834)年 12月 19日 散位の従七位下川上造吉備成に春道宿祢の姓を賜る。
承和2(835)年 2月 4日 俘囚の勳五等吉弥侯宇加奴・勳五等吉弥侯志波宇志・勳五等吉弥侯億可太らに物部斯波連の姓を賜る。
承和2(835)年 3月 16日 下総国の人で鎮守将軍の外従五位下勲六等物部匝瑳連熊猪に宿祢の姓を賜り、左京二条へ貫附する。
承和2(835)年 3月 21日 空海が死去。
承和2(835)年 10月 26日 摂津国の人で散位の矢田部聰耳と弟の従八位上貞成らに興野宿祢の姓を賜る。
承和2(835)年 11月 13日 左京の人・正六位上越智直年足と伊予国越智郡の人・正六位上越智直広成ら七人の姓直を改めて宿祢を賜る。
承和3(836)年 1月 7日 正六位上物部首広国に外従五位下を授ける。
承和3(836)年 閏5月 8日 散位の春道宿祢吉備成らの本居を改めて右京七条二坊に貫附する。
承和4(837)年 1月 9日 伊予国の人で典薬権允の物部首広宗とその弟の真宗らを左京二条四坊に貫附する。
承和4(837)年 4月 5日 大和国の人で内藏史生の大俣連福山に大貞連の姓を賜る。
承和4(837)年 4月 21日 陸奧出羽按察使の坂上大宿祢浄野が鎮守将軍の匝瑳宿祢末守からの報告を元に援兵一千人の派遣を上申、許可される。
承和5(838)年 12月 27日 大安寺の僧・伝灯大法師位寿遠が卒する。俗姓椋橋部氏、武蔵国の人。
承和6(839)年 1月 7日 正六位上物部首広泉に外従五位下を授ける。
承和6(839)年 4月 26日 陸奥守の正五位下良岑朝臣木連と鎮守将軍の従五位下匝瑳宿祢末守が上申した兵一千人の徴発を許可。
承和6(839)年 10月 19日 摂津国の人で直講博士の従六位下佐夜部首穎主に善友朝臣の姓を賜り、左京四条二坊に貫附する。
承和6(839)年 11月 5日 伊予国の人・外従五位下風早直豊宗ら一戸に善友朝臣の姓を賜り、左京四条二坊に貫附する。
承和7(840)年 3月 12日 俘夷の物部斯波連宇賀奴に、逆賊に与せず長く勲功があったため外従五位下を授ける。
承和7(840)年 3月 26日 陸奥守の正五位下良峯朝臣木連と前鎮守将軍の外従五位下匝瑳宿祢末守らに、奥地の人民が起こしている騒動を鎮めるため援兵を徴発して対処するよう勅。
承和8(841)年 3月 2日 右京の人でもと河内国志紀郡に住んでいた衣縫造金継女の孝行を賞して、三階に叙し終身その戸の田祖を免除。
承和8(841)年 閏9月 28日 伯耆国八橋郡の人・陰陽博士の正六位下春苑宿祢玉成の母、曽祢連家主女の姉妹・男女ら一戸の本居を改め、右京三条一坊に貫附する。
承和8(841)年 11月 20日 外従五位下善友朝臣豊宗に従五位下を授ける。
承和9(842)年 1月 7日 従五位下春澄宿祢善縄に従五位上を授ける。
承和9(842)年 7月  17日 承和の変が起こる。
承和9(842)年 7月 26日 従五位上春澄宿祢善縄を周防権守に任じる。
承和10(843)年 2月 10日 従五位上春澄宿祢善縄を文章博士に任じ、従五位下善友朝臣豊宗を大炊頭に任じ、外従五位下匝瑳宿祢末守を安房守に任じる。
承和10(843)年 6月 1日 承和の日本紀講筵が始まる(翌年6月15日終了)。博士は菅野朝臣高年。
承和10(843)年 12月 4日 摂津国豊嶋郡の人で左衛門府門部の正八位上迹連継麻呂と、式部位子従八位下勳八等迹連成人、散位正六位上迹連浄足と、式部位子少初位下迹連浄永ら七十人に、迹の字を除いて阿刀連の姓を賜る。(天平年間に迹一字を誤って姓としたものを元に戻す)
承和11(844)年 1月 7日 正六位上宇治宿祢丹生麻呂に外従五位下を授ける。
承和11(844)年 8月 5日 大納言正三位藤原朝臣良房の問いに文章博士従五位上春澄宿祢善縄と大内記従五位下菅原朝臣是善らが返答。嵯峨天皇の遺勅に怪異が起こるたび先祖の祟りのせいにすることを戒めるものがあったが、占いもある程度信じることにする。
承和12(845)年 1月 7日 正六位上善友朝臣穎主と氷宿祢継麻呂にそれぞれ外従五位下を授ける。
承和12(845)年 2月 2日 和泉国日根郡の人・正六位上春世宿祢嶋長らに榎井朝臣の姓を賜り右京二条一坊に貫附する。
承和12(845)年 7月 14日 右京の人で中務少録の正七位下巫部宿祢公成、大和国山辺郡の人で散位の従六位下巫部宿祢諸成、和泉国大鳥郡の人・正六位上巫部連継麻呂、従七位下巫部連継足、白丁の巫部連吉継らに、当世宿祢の姓を賜る。
承和12(845)年 12月 5日 外従五位下物部首広泉を侍医のまま内薬正に任じる。
承和13(846)年 1月 13日 従五位上春澄宿祢善縄を文章博士のまま備中介に任じる。
承和13(846)年 3月 9日 勘王世所の言上により、畿内諸国に命じ諸家の氏姓出自と皇胤の所在を調べさせる。
承和13(846)年 12月 27日 尾張国山田郡の人で内蔵少属の正六位上物部宮守を左京六条四坊に貫附する。
承和14(847)年 1月 7日 外従五位下物部首広泉に従五位下を授ける。
承和14(847)年 2月 11日 外従五位下善友朝臣穎主を大学博士に任じる。
承和14(847)年 5月 11日 清涼殿において荘子の竟宴。天皇も文章博士従五位上春澄宿祢善縄の講義を受けていたため、殿上に善縄を招き杯を賜り束脩の礼を行う。善縄に御衣二襲を賜る。
承和14(847)年 5月 27日 天皇、文章博士の春澄宿祢善縄を清涼殿に呼びはじめて漢書を読む。
承和15(848)年 1月 7日 従五位上春澄宿祢善縄に正五位下を授け、正六位上榎井朝臣嶋公に外従五位下を授け、外従五位下善友朝臣穎主に従五位下を授ける。
承和15(848)年 1月 13日 外従五位下榎井朝臣嶋公を摂津介に任じ、外従五位下氷宿祢継麻呂を駿河介に任じる。
承和15(848)年 2月 14日 正五位下春澄宿祢善縄を文章博士のまま備中守に任じる。
承和15(848)年 5月 28日 従五位下善友朝臣豊宗を上総権介に任じる。
嘉祥2(849)年 1月 7日 外従五位下榎井朝臣嶋公に従五位下を授ける。
嘉祥2(849)年 5月 2日 少内記従七位下安野宿祢豊道らを鴻臚舘に遣わし、渤海国からの使いに勅書と太政官牒を賜る。
嘉祥2(849)年 10月 5日 近江国愛智郡の人で音博士の従六位下物部弥範と、散位の従六位上物部弘範らを左京六条二坊に貫附する。
嘉祥3(850)年 4月 17日 正五位下春澄宿祢善縄に従四位下を授け、正六位上榎井朝臣嶋長に外従五位下を授ける。
嘉祥3(850)年 7月 9日 伊予国の人、物部連道吉らに位一階を叙す。
嘉祥3(850)年 10月 7日 大和国の石上神に正三位の神階を授ける。
仁寿元(851)年 1月 11日 従五位下善友朝臣穎主を摂津権介に任じ、従五位下物部首広泉を内薬正侍医のまま伊予権掾に任じる。
仁寿元(851)年 4月 1日 従四位下春澄宿祢善縄を出居侍従に任じ、従五位下善友朝臣豊宗を次侍従に任じる。
仁寿元(851)年 4月 8日 従五位下物部首広泉を次侍従に任じる。
仁寿元(851)年 4月 25日 天皇が散位の従四位下春澄宿祢善縄を召し、北殿において文選を講じさせる。
仁寿元(851)年 6月 29日 摂津権介の従五位下善友朝臣穎主が卒する(72歳)。
仁寿元(851)年 11月 26日 正六位上春道宿祢永蔵に外従五位下を授ける。
仁寿2(852)年 1月 15日 従四位下春澄宿祢善縄を但馬守に任じる。
仁寿2(852)年 2月 15日 従五位下善友朝臣豊宗を散位頭に任じる。
仁寿3(853)年 1月 7日 正六位上物部弥範に外従五位下を授ける。
仁寿3(853)年 1月 16日 外従五位下春道宿祢永蔵を因幡介に任じる。
仁寿3(853)年 10月 11日 但馬守の従四位上春澄宿祢善縄に朝臣の姓を賜る。
斉衡元(854)年 1月 7日 従五位下物部首広泉に従五位上を授け、正六位上水取連継に外従五位下を授ける。
斉衡元(854)年 1月 16日 外従五位下榎井朝臣嶋長を主税頭に任じる。
斉衡元(854)年 9月 23日 従四位下春澄朝臣善縄を但馬守のまま刑部大輔に任じる。
斉衡元(854)年 10月 15日 内薬正の従五位上物部首広泉に朝臣の姓を賜る。
斉衡元(854)年 10月 20日 刑部大輔の春澄朝臣春縄、文章博士の菅原朝臣是善、民部少輔の大枝朝臣音人らを召し蔵人所において重陽節の詩を評させる。
斉衡2(855)年 2月  17日 右大臣正二位藤原朝臣良房、参議従三位伴宿祢善男、刑部大輔従四位下春澄朝臣善縄、少外記正六位上安野宿祢豊道らに国史(続日本後紀)の編纂を命じる。
斉衡3(856)年 1月 7日 正六位上安野宿祢豊道に外従五位下を授ける。
斉衡3(856)年 9月 3日 大僧都伝燈大法師位の実敏が卒する。俗姓は物部氏で尾張国愛智郡の人。
斉衡3(856)年 9月 27日 外従五位下榎井朝臣嶋長を越後介に任じる。
斉衡3(856)年 11月 3日 刑部大輔の春澄朝臣善縄が天皇に晋書を講じる。
天安元(857)年 1月 7日 正六位上水取連柄仁に外従五位下を授ける。
天安元(857)年 1月 14日 外従五位下安野宿祢豊道を下総介に任じ、従四位下春澄朝臣善縄を伊予守に任じ、従五位上物部朝臣広泉を内薬正侍医のまま肥前介に任じる。
天安元(857)年 6月 25日 大宰府からの言上で、対馬国の上県郡擬主帳卜部川知麻呂・下県郡擬大領直浦主らが率いる300余人が、国守の正七位下立野連正岑の館を襲撃し正岑と従者10人・防人6人を殺害していたことが明らかになる。
天安元(857)年 11月 25日 外従五位下水取連柄仁を鼓吹正に任じる。
天安2(858)年 1月 7日 従四位下春澄朝臣善縄に従四位上を授ける。
天安2(858)年 2月 5日 従五位上物部朝臣広泉を内薬正侍医のまま参河権介に任じる。
天安2(858)年 4月 11日 伊予守の従四位上春澄朝臣善縄らを諸大神社に遣わす。
天安2(858)年 12月 8日 対馬守の正七位下立野連正峯を殺害した下県郡擬大領の直氏成らは斬刑に処するところだったが死一等を減じて遠流とする。
貞観元(859)年 1月 27日 大和国の正三位勳六等石上神に従一位の神階を授ける。
貞観元(859)年 11月 19日 内薬正兼侍医参河権介の従五位上物部朝臣広泉に正五位下を授ける。
貞観2(860)年 1月 16日 伊予守の従四位上春澄朝臣善縄を参議に任じる。
貞観2(860)年  2月 11日 無位水取連夏子に従五位下を授ける。
貞観2(860)年 2月 14日 散位の外従五位下春道宿祢永蔵を造酒正に任じ、内薬正兼侍医参河権介の正五位下物部朝臣広泉を参河権守に任じる。
貞観2(860)年 5月 23日 尾張国の人・従六位上笛吹部高継を本姓の物部屋形氏に復する。
貞観2(860)年 10月 3日 内薬正兼侍医参河権守の正五位下物部朝臣広泉が卒する(七十六歳)。
貞観2(860)年 閏10月 12日 豊後国権掾の正六位上越智宿祢広成が齢八十にも及ぶため官を辞すことを請い許可される。
貞観2(860)年 11月 16日 外従五位下春道宿祢永蔵に従五位下を授け、右近衛将監兼土佐権掾の肩野連道主に外従五位下を授ける。
貞観3(861)年 1月 13日 参議の従四位上春澄朝臣善縄を式部大輔に任じる。
貞観3(861)年 10月 28日 淡路国浪人の物部冬男は錦織広人を殺害していたため斬刑に処されるところであったが死一等を減じて遠流とする。
貞観4(862)年 1月 7日 参議・式部大輔の従四位上春澄朝臣善縄に正四位下を授ける。
貞観4(862)年 1月 13日 散位の外従五位下肩野連道主を駿河権介に任じる。
貞観4(862)年 7月 28日 摂津国西成郡の人で陰陽允の阿刀物部貞範を左京に貫附し、因幡国巨濃郡の人で中宮大属の正六位上物部門起を右京に貫附。
貞観5(863)年 2月 10日 参議の正四位下春澄朝臣善縄を式部大輔のまま播磨権守に兼任させる。
貞観5(863)年 6月 8日 甲斐国の従五位下勲十二等物部神に従五位下の神階を授ける。
貞観5(863)年 8月 8日 摂津国河辺郡の人で散位の正六位上若湯坐連宮足、主殿允の正六位上若湯坐連仁高ら三人の本居を改めて右京とする。
貞観5(863)年 8月 17日 和泉国大鳥郡の人で大蔵大録の正七位上当世宿祢高門の本居を改めて右京とする。
貞観6(864)年 1月 7日 太政大臣藤原朝臣良房、参議春澄朝臣善縄ら公卿が清和天皇の元服を賀し奉る。
貞観6(864)年 1月 16日 参議・式部大輔兼播磨権守の正四位下春澄朝臣善縄を式部大輔のまま近江守を兼任させる。
貞観6(864)年 5月 11日 右京の人で因幡権掾の正六位上物部門起に春道宿祢の姓を賜る。
貞観6(864)年 8月 8日 左京の人で玄蕃大允の正六位上阿刀連粟麻呂、主殿大属の正六位上阿刀宿祢石成、下野権大目の正七位上阿刀連祢守、右京の人で陰陽允の阿刀物部貞範らに良階宿祢の姓を賜り、播磨国餝磨郡の人で陰陽師の従八位下弓削連是雄と父の正六位上弓削連安人らの本居を改めて河内国大県郡とする。左京の人で散事の従五位下水取連夏子、故外従五位下水取連柄仁、故外従五位下水取連継男らに朝臣の姓を賜る。
貞観6(864)年 8月 17日 美濃国多芸郡の人で太政官史生の正八位下物部吉宗の本居を改め山城国愛宕郡とする。
貞観6(864)年 8月 25日 左京の人で主水令史の正七位下水取連継人と散位の正八位下水取連継主に宿祢の姓を賜る。
貞観7(865)年 1月 27日 造酒正の従五位下春道宿祢永蔵を内蔵助に任じる。
貞観8(866)年 1月 7日 蔭子の春澄朝臣具瞻に従五位下を授ける。
貞観8(866)年 3月 28日 甲斐国の従五位上勲十二等物部神に正五位下の神階を授ける。
貞観8(866)年 3月 10日 応天門が炎上。
貞観8(866)年 この年、隠岐守の正六位上越智宿祢貞厚が浪人安曇福雄によって新羅人とともに反逆を企てたという理由で密告される。
貞観9(867)年 3月 10日 大和国の従一位勲六等石上神に正一位の神階を授ける。
貞観9(867)年 3月 11日 信濃国高井郡の人・従八位上物部連善常の本居を改め山城国紀伊郡とする。
貞観9(867)年 4月 17日 散位の従五位下春澄朝臣具瞻を侍従に任じる。
貞観10(868)年 1月 8日 主殿允の正六位上若湯坐連仁高に外従五位下を授け、春澄朝臣高子に従五位下を授ける。
貞観11(869)年 1月 7日 陰陽允の正六位上良階宿祢貞範に外従五位下を授ける。
貞観11(869)年 3月 22日 石見国の従五位上物部神に正五位下の神階を授ける。
貞観11(869)年 10月 26日 隠岐前守越智宿祢貞厚の謀反は調査の結果、誣告であることが判明し密告者の安曇福雄は斬刑に、貞厚は自らの管轄下で起こった殺人事件を弾劾しなかった件で斬刑となるところだったが罪一等を減じて遠流とする。
貞観11(869)年 12月 8日 丹波国の正六位上物部簀掃神に従五位下の神階を授ける。
貞観12(870)年 1月 25日 参議・式部大輔の正四位下春澄朝臣善縄を式部大輔のまま讃岐守に兼任させる。
貞観12(870)年 2月 7日 参議・式部大輔の正四位下春澄朝臣善縄に従三位を授ける。
貞観12(870)年 2月 19日 参議の従三位春澄朝臣善縄が薨じる。
貞観12(870)年 7月 5日 散位の外従五位下若湯坐連仁高を安房守に任じる。
貞観12(870)年 12月 26日 伊予国宇摩郡の人・従七位上苅田首倉継、苅田首浄根らに物部連の姓を賜る。
貞観12(870)年 12月 29日 従五位下春道宿祢永蔵を次侍従に任じる。
貞観13(871)年 11月 13日 伊予国越智郡の人で直講の外従五位下越智直広峯の本居を改めて左京とする。
貞観15(873)年 9月 9日 掌侍の従五位上春澄朝臣高子がその氏神に奉幣するため伊勢国へ向かう。
貞観15(873)年 12月 2日 左京の人で助教の外従五位下越智直広峯に善淵朝臣の姓を賜り、河内国大県郡の人で陰陽允の正七位上弓削連是雄の本居を改めて右京三条二坊とする。
貞観17(875)年 10月 10日 石見国の正五位下物部神に正五位上の神階を授ける。
貞観18(876)年 7月 11日 甲斐国の従四位下勲十二等物部神に従四位上の神階を授ける。
元慶元(877)年 1月 3日 陰陽権助兼播磨権少目の弓削連是雄に外従五位下を授ける。
元慶元(877)年 2月 22日 掌侍の従五位上春澄朝臣高子が皇太夫人藤原高子の諱を避けて名を洽子に改める。
元慶元(877)年 12月 25日 右京の人で陰陽権助の外従五位下弓削連是雄に宿祢の姓を賜る。讃岐国寒川郡の人で木工大允の正六位上矢田部造利人の本居を改めて山城国愛宕郡とする。
元慶元(877)年 12月 27日 右京の人で散位の従五位下肩野連道主と近江少目の従七位上肩野連乙守に良棟宿祢の姓を賜る。
元慶2(879)年 2月 25日 元慶の日本紀講筵が始まる(元慶5年6月29日終了)。博士は善淵朝臣愛成。
元慶3(879)年 9月 4日 石見国の正五位上物部神に従四位下の神階を授ける。
元慶3(879)年 11月 25日 鋳銭長官兼周防守の春澄朝臣具瞻に従五位上を授ける。
元慶4(880)年 2月 8日 甲斐国の従四位上勲十二等物部神に正四位下の神階を授ける。
元慶5(881)年 3月 26日 諸国の神社の祝部氏人の本系帳を三年に一度進上させる。
元慶5(881)年 5月 3日 陸奥蝦夷訳語の外従八位下物部斯波連永野に外従五位下を授ける。
元慶5(881)年 5月 13日 右衛門府生の従七位上善友朝臣益友、従八位下阿刀連良縄らを遣わし山城・摂津・播磨の海賊を追捕する。
元慶5(881)年 10月 11日 小治田宿祢春雄らを左近衛権少将兼陸奥守の平朝臣末長の随身とするため陸奥国に遣わす。
元慶6(882)年 1月 7日 陰陽権助兼備前権掾の外従五位下弓削宿祢是雄に従五位下を授け、木工大允の正六位上矢田部造利人に外従五位下を授ける。
元慶6(882)年 10月 9日 近江国の正六位上物部布津神に従五位下の神階を授ける。
元慶8(884)年 2月 23日 典薬助の外従五位下物部朝臣内嗣に従五位下を授ける。
元慶8(884)年 3月 9日 縫殿頭の従五位下春澄朝臣魚水を駿河守に任じる。
仁和元(885)年 4月 27日 陰陽権助の従五位下弓削宿祢是雄を陰陽頭に任じる。
仁和2(886)年 1月 7日 散位の従七位上石上朝臣並松に従五位下を授ける。
仁和3(887)年 1月 7日 木工大允の正六位上猪名部造有吉に外従五位下を授ける。
仁和3(887)年 1月 8日 掌侍の正五位下春澄朝臣洽子に従四位下を授ける。
仁和3(887)年 2月 2日 外従五位下矢田部造利人を長門介に任じる。
仁和3(887)年 閏11月 27日 阿衡の紛議。藤原朝臣基経が出仕を停め、政務が滞る。
仁和4(888)年 4月   東国で物部氏永を首領とする群盗が蜂起。

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