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「紀氏家牒」 武内宿禰の系図


 

 

現存の紀氏家牒は、26か条のみが残存する逸文です。このなかに、物部氏と蘇我氏の関係を物語る史料も含まれています。
蘇我蝦夷の母は物部守屋の妹「太媛」で、守屋の死後はその太媛を石上神宮の斎神の頭とすることで、蝦夷は石上神宮を支配することができたとするものです。
日本書紀の崇峻即位前紀には、時の人の語りとして「蘇我大臣の妻は、是物部守屋大連の妹なり。大臣、妄に妻の計を用ゐて、大連を殺せり」とあり、また皇極二年十月条に、蘇我蝦夷が入鹿に私に大臣の位を譲り、その弟は物部大臣といわれていたこととともに、「大臣の祖母は、物部弓削大連の妹なり。故母が財に因りて、威を世に取れり」とあります。これらと同様の捉えられ方がされているといえます。
蝦夷が「物部首」「神主首」と呼んだとされる石上神宮の祀官たちについては、新撰姓氏録大和国皇別の布留宿祢条に関連する内容がみえます。斉明朝(舒明朝、あるいは皇極朝の誤り)に、蘇我蝦夷によって、布留氏の祖の武蔵臣が「物部首」「神主首」とされ、臣姓から格下の首姓に貶められたというものです。祖先をより高い地位で顕彰しようとする意識が働いているため、大化前代に布留氏が臣姓であったことは疑わしいですが、実際に石上神宮が一時期、蘇我氏の影響下にあったことから生まれた伝承と見てよいでしょう。

「紀氏家牒がいう。蘇我馬子宿祢の男子、蝦夷宿祢の家は、葛城県の豊浦里にある。そのため、名を豊浦大臣という。また、家に多くの兵器を貯えていたので、武蔵大臣とも通称された。
蝦夷宿祢の母は物部守屋大連[または弓削大連という]の妹で、名を太媛という。守屋大連家が滅んだ後、太媛を石上神宮の神を祀る長とした。このため、蝦夷大臣は物部氏に属する神主家らを配下とし、それらを物部首といい、また神主首といった。

(紀氏家牒曰、馬子宿祢男、蝦夷宿祢家、葛城県豊浦里。故名曰豊浦大臣。亦家多貯兵器、俗云武蔵大臣。母物部守屋大連[亦曰弓削大連。]之妹、名云太媛也。守屋大連家亡之後、太媛為石上神宮斎神之頭。於是、蝦夷大臣以物部族神主家等為僕、謂物部首。亦云神主首。)」


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