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賀茂別雷神社 [地図]

京都府京都市北区上賀茂本山に鎮座する、賀茂別雷神社です。上賀茂神社の通称でも親しまれています。

『延喜式』神名帳の山城国愛宕郡に、「賀茂別雷神社」がみえます。

『続後紀』承和十五年二月二十一日条には、賀茂御祖神社が天平勝宝二年に神田一町を給わったものの、それ以降は加増されず運営費用が欠乏しているため、賀茂別雷神社にならって加増するよう求めを出したことがみえます。
奈良時代中期には、既に賀茂社は上下の二社になっていたことがわかります。

賀茂(鴨)県主氏によって奉斎され、創建にもこの氏が関与したと見られます。

賀茂県主は『旧事本紀』神代本紀に神皇産霊尊の子・天神玉命の後裔といい、『姓氏録』山城国神別は神魂命の孫・建津之身命の後裔といいます。
建津之身命は、『日本書紀』の神武東征譚で活躍する八咫烏と同一視されます。

平安遷都により都の守護神として朝廷の庇護も厚く、『続紀』延暦三年十一月二十日条には賀茂上下社が従二位の神階へ叙されたことが、『紀略』大同二年五月三日条には賀茂御祖神・別雷神が並んで正一位に昇ったことがみえます。

細殿の前にある立砂。
北へ2.5kmほどのところにある、神山を模したものといわれます。
神山は現在禁足地。山頂の磐座に祭神が降臨したと伝えます。

祭神は、賀茂別雷神。

『釈日本紀』が引く『山城国風土記』に、建角身命の娘・玉依日売が石川の瀬見の小川で川上から流れてきた丹塗り矢を持ち帰り、寝床の近くに挿して置くと、みごもって男の子を生んだ。
子が成長した後、神を集めて宴遊したとき、建角身命が父と思う人に酒を飲ませよといったところ、その子は天に杯をささげ、屋根を突き破って天に昇っていってしまった。
そこで可茂別雷命と名づけた、という話がみえます。

「岩上(がんじょう)」。

賀茂祭(葵祭)には、宮司がこの岩の上に蹲踞して勅使と対面し、御祭文に対して神の意思を返祝詞で伝える場所です。

末社の岩本神社。
小川の間近にある岩の上に社殿が建っています。

底筒男神、中筒男神、表筒男神を祀ります。

片山御子神社。
片岡社とも呼ばれます。第一摂社として崇敬を集めるそうです。
『延喜式』にある「片山御子神社」の比定社とされます。

玉依比売命を祀ります。

摂社の須波神社。
式内「須波神社」の論社のひとつです。

阿須波神、波比祇神、生井神、福井神、綱長神を祀ります。

摂社の賀茂山口神社。
沢田社とも呼ばれます。こちらも延喜式内社とされます。

御歳神を祀ります。

 

久我神社 [地図]

京都府京都市北区紫竹下竹殿町に鎮座する、久我神社です。
賀茂別雷神社の境外摂社で、賀茂川を挟んで南西に約1kmのところにあります。

『延喜式』神名帳の山城国愛宕郡に、「久我神社」がみえます。

史上の初見は『三代実録』貞観元年正月二十七日条で、山城国の正六位上久我神が従五位下の神階へ昇叙したとあります。

祭神は賀茂建角身命。
賀茂県主の祖神です。

『山城国風土記』は建角身命を日向の曽の峰に天降った後、神武天皇の先導として立ち、大和の葛木山に宿ったとします。
その後さらに移動して、山代国の岡田の賀茂から山代河を下り、葛野河と賀茂河の合流点を経て、賀茂川を上り「久我の国の北の山基」を居場所に定めたといいます。

この神社の一帯が、まさに「久我国の北の山の麓」にあたると考えられています。

『旧事本紀』天神本紀には、饒速日尊に供奉して天降った三十二防衛神のなかに、山背久我直の祖の天背男命と、久我直の祖の天世平命がみえます。
久我直は、地名「久我」をウヂ名に称し、直姓を持つことから、久我国造的な地位にあった氏と考えることができるかもしれません。

『旧事本紀』天孫本紀は、物部氏の祖・伊香色雄命に山代県主との通婚があったといい、また物部塩古連公の後裔に葛野韓国連氏が、物部奈西連公の後裔に葛野連氏のあることを伝えます。
物部氏が一時期、京都盆地へ勢力を伸ばし、当地の豪族と接触を持ったことが、饒速日命伝承に久我氏の祖神が登場する背景でしょうか。

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