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埼玉古墳群は、埼玉県行田市埼玉・渡柳にある古墳群です。利根川と荒川に挟まれた沖積地に位置し、現在は、「さきたま風土記の丘」公園として整備されています。
消滅した大人塚古墳を含む9基の前方後円墳と、丸墓山古墳以下の40基弱の円墳、消滅した1基の方墳からなります。

銘文の入った鉄剣の出土で知られる稲荷山古墳を皮切りに、一辺40mの方墳である戸場口山古墳まで、5世紀末から7世紀初頭の時期に、有力な規模の古墳が継続して営まれました。

被葬者については諸説ありますが、原島礼二氏は『聖徳太子伝暦』に登場する、聖徳太子の舎人で、のち癸巳(633)年に武蔵国造となった当地の豪族、物部連兄麻呂に関連していいます。

「ここで注目する必要があるのは、第二代天台座主として知られる埼玉郡出身の僧円澄が、壬生という姓を元来名のっていた事実だ。壬生が聖徳太子ゆかりの名代・子代だとする説に注意すると、兄麻呂と太子とのつながりの過程で、物部から太子側近としてふさわしい壬生に姓が変化したとも思われる。」
「この下降線をたどった大族(物部氏)と、兄麻呂の祖先はむすびついていたことがわかるが、この大族と埼玉古墳群をつくった豪族が頭角を現したのは、いずれも五世紀後半のことだった。
物部氏やそれとむすびつく阿倍氏・膳氏らとつながることによって、埼玉の物部氏は地方豪族では格の高い連を名のることもできたのだろう。
しかし、守屋の滅亡を転機に、埼玉の物部氏の一派は聖徳太子の側近という道を切りひらいた。多分この転機が埼玉古墳群にみられる、西暦六〇〇年前後を限りとする古墳築造の停止とつながるのだろう。それに替わって、古墳群の北方に大きい古墳(真観寺・八幡山など)をつくりはじめた埼玉の物部氏の分派が、多分兄麻呂一族なのだろう。」

として、被葬者を「埼玉の物部氏」にあてます。
中央の物部氏との強いパイプを持ち、その後ろ楯を得ることで、当地での勢力を拡大させることができた、ということでしょうか。

5世紀後半の雄略朝は、全国的には大型古墳の築造が縮小や断絶する地域の多いことで知られます。ヤマト王権の勢力伸張により、在地勢力が圧迫されることによって、もたらされた現象と見られます。
そんななか、当地では新たに大型古墳の造営が開始されます。中央政界との、強い結びつきがうかがえます。

 

埼玉(さきたま)古墳群 [地図]

【稲荷山古墳】

墳長120m、後円部径62m、前方部幅74m。5世紀末の築造と見られる前方後円墳です。

昭和12年ころ、土取りのために前方部は削平されてしまいましたが、現在は復元されています。

後円部に二つある主体部のうち、西側のものから、115文字の金象嵌銘文が入った大刀が出土しました。公園内の、県立さきたま史跡の博物館で現物を見ることができます。

大刀に刻まれていた「辛亥年」は西暦471年、「獲加多支鹵大王」は雄略天皇と見られ、今日もっとも重要な金石史料として知られています。

銘文にある「乎獲居臣」が、この古墳の被葬者なのか、また、そうだとすれば、在地の人物なのか、畿内から派遣された人物なのか、諸説あります。

「辛亥年」については、531年にあてる説もありましたが、出土の須恵器がTK23型式、ないしはTK47型式の古い段階の特徴を示すことから、471年説が定説となりました。


【丸墓山古墳】

直径105mの円墳です。円墳としては、全国最大の規模を誇ります。
広い幅の一重周濠がめぐっていたようですが、復元されているのは東側だけです。

6世紀初頭ころに築かれたと見られています。


【二子山古墳】

墳長138m、後円部径70mの前方後円墳です。
埼玉古墳群内はもとより、武蔵国地域では最大の規模を誇ります。

出土の須恵器からは、6世紀前半の築造と見られているようです。

長方形の二重周濠を持ちます。墳丘の西側くびれ部に造り出しを持ち、中堤には張り出しも持ちます。

円筒埴輪などの埴輪も出土しているそうです。


【愛宕山古墳】

墳長53m、後円部径30mの、比較的ちいさな前方後円墳です。公園駐車場のすぐ隣りにあります。

円筒埴輪から、6世紀前葉〜中葉の築造と見られています。


【奥の山古墳】

墳長70m、後円部径43mの前方後円墳です。
出土の円筒埴輪からは、6世紀中葉に築かれたかと見られています。

近年行われたレーダー探査からは、主体部は二つの箱式石棺が疑われるらしいです。

公園化されたときに造った周囲の池は、季節によって水面が上下するため、墳丘がすり減っていく危険がありました。
保護のため池の埋め立てなどの整備を前提とした調査が行われ、周濠は従来見られていた盾形ではなく、群内のほかの古墳同様、四角形であることが明らかになりました。

【瓦塚古墳】

墳長73mの前方後円墳です。長方形の二重周濠がめぐり、現在はその位置がわかるように復元されています。
多彩な埴輪が中堤上から出土したことでも知られます。
築造時期は、6世紀中葉と見られるようです。

【鉄砲山古墳】

墳長109m、後円部径55m、前方部幅69mの前方後円墳です。
部分的な発掘から、二重の周濠を持つことがわかっているそうです。
出土の須恵器から、6世紀中葉〜後葉ころに築かれたと見られています。

通常は墳丘には登れません。上は2009年の特別公開の際の写真。


【将軍山古墳】

墳長90mの前方後円墳です。出土の須恵器からは、6世紀後半に築かれたと見られています。
二重の周濠を持ちますが、中堤が張り出し部分で外部と繋がっているので、外側の濠は一周していません。

一部に房州石を使った横穴式石室が主体部で、現在は展示館として復元されています。


【中の山古墳】

墳長79mの前方後円墳です。
出土の須恵器から、6世紀末〜7世紀初頭に築かれたものと見られています。
唐櫃山ともいい、かつて横穴式石室の存在が知られていたためつけられた別名かともいわれます。


【円墳群】

ほとんど削平されてしまいましたが、直径10m〜30m程度の円墳も、40基ちかく存在したらしいです。
梅塚古墳など、一部は植栽で場所がわかるようになっています。

【前玉神社】
さきたま風土記の丘の東隣りに鎮座します。
『延喜式』神名帳の武蔵国埼玉郡に、「前玉神社」があります。

祭神は、前玉彦(さきたまひこ)命・前玉姫(さきたまひめ)命です。

古墳群の被葬者の一族が祀っていた神と見る説があります。

社殿の建っている小さな丘が、埼玉古墳群を構成する円墳「浅間塚古墳」です。
浅間の名前は、この神社の摂社にもとづくようです。

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参考:
埼玉県『新編埼玉県史 通史編1原始・古代』第四章第四節(原島礼二執筆分担)
森田悌「武蔵国の物部系地名」 『日本歴史』第668号
山田俊輔「雄略朝期の王権と地域」 『史観』第158冊
高橋一夫『鉄剣銘一一五文字の謎に迫る 埼玉古墳群』
埼玉県立さきたま史跡の博物館公式サイト