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中臣須牟地神社 [地図]

大阪府大阪市東住吉区住道矢田に鎮座する、中臣須牟地神社です。

一帯は、『和名抄』の摂津国住吉郡住道郷に比定されます。

『延喜式』神名帳の摂津国住吉郡に、「中臣須牟地神社」があります。

祭神は中臣須牟地神。神須牟地神、須牟地曽祢神、住吉大神を配祀します。

『住吉大社神代記』にも「中臣住道神」としてみえ、住吉大社の末社支社扱いを受けています。
住道神二座と須牟地曽祢神とともに、「件の住道神達は八前なり」「天平元年十一月七日、託宣に依り移徒りて河内国丹治比郡の楯原里に坐す。かれ、住道里の住道神と号く。」とあり、遷座を経験している可能性がありそうです。

『三代実録』貞観元年正月二十七日条には、摂津国の従五位下中臣須牟地神が従五位上の神階を授かったことがみえます。

本殿のまわりに朽ちかけた土壁がめぐっているのが印象的でした。

『延喜式』玄蕃寮には、新羅の客が来朝したときに神酒を給すとあり、大和の四社、河内の一社、和泉の一社、摂津の二社から合計240束の稲を住道社に送り、そこで醸した酒は難波館で給したことが規定されています。
酒を給する使いに任じられたのは神部造によって差し向けられた中臣一人だったといい、社名の「中臣」からして当社がこの住道社なのでしょう。
また、『延喜式』臨時祭には八十嶋祭に際して、住道神二座へ、住吉神・大依羅神・海神・垂水神とともに座別の幣帛として「五色帛各五色・絹五尺・糸一絇・綿一屯・倭文一尺・褁料布三尺」が記され、奉仕者の料として住道社の祝に布一端が支給されるとされています。
境内社は、猿田彦神を祀るものなど複数ありました。

 

神須牟地神社 [地図]

大阪府大阪市住吉区長居西に鎮座する、神須牟地神社です。
三の宮、三明神の通称があったそうです。

『延喜式』神名帳の摂津国住吉郡に、「神須牟地神社」がみえます。

祭神は境内の由緒書によると、神産霊神(神皇産霊神)、天日鷲命、少彦名命。
天日鷲命は合祀された多米神社の神です。

『住吉大社神代記』に中臣須牟地神や須牟地曽祢神とともに「件の住道神達は八前なり」とある「住道神」は、神須牟地神社の祭神を指すと見られます。

住吉大社の真西、約1.5kmのところに位置します。
これは、雄略紀十四年正月十三日条に呉(中国南朝か)の使者を迎えた記事にもある「磯歯津路」に面していたためと見ることができそうです。
慶長年間には兵火にかかり、多賀谷家らによって再建されたと伝えるなど中世以降曲折を経ますが、古代からほとんど鎮座地を動かしていないと見ることができるかもしれません。

社名の「須牟地=住道」は、磯歯津路のことと見るのが、本居宣長以来、有力です。

『姓氏録』摂津未定雑姓には住道首があり、「伊弉諾尊の男、素盞嗚命の後なり」とします。
当地の豪族で、あるいは神社の祭祀に関与していたかもしれません。

境内の農神社は農耕の神で、大己貴命を祀るといいます。

 

須牟地曽祢神社 [地図]

大阪府堺市北区蔵前町に鎮座する、須牟地曽根神社です。勝手神社、勝手明神とも呼ばれます。

『延喜式』神名帳の摂津国住吉郡に、「須牟地曽祢神社」があります。

祭神は須牟地曽根之命。
物部氏族に曽祢氏があることから、饒速日命や伊香我色雄命をあてる説もあります。

『住吉大社神代記』には子神(末社支社の類い)が列挙される中に、「須牟地曽祢神」「須牟道曽祢神」が見えます。

明治二十八年に社殿が焼失し、近くの金岡神社へ合祀されましたが、復興しています。

鳥越憲三郎氏は、『旧事本紀』天神本紀に饒速日尊に供奉したことがみえる「住跡物部」について「住道物部」の誤記とします。
「古くはこの辺りまで住道物部の領域であった」(『女王卑弥呼の国』)とされましたが、どうでしょうか。
五世紀代における住吉津の繁栄は、周辺に交通路の発達をもたらし、その交通路に沿った地域の集団にも繁栄をもたらしました。
須牟地を称する神社が複数あることは、住道周辺に複数の豪族が拠点を持ち、それぞれに神を祀っていたことと関係するように思います。

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