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陣座ヶ谷古墳 [地図]

静岡県浜松市北区細江町中川の陣座ヶ谷古墳です。

前方部を西に向けた前方後円墳で、全長約五五m、後円部径約四二m、前方部幅約二〇mを測ります。
県の史跡に指定されています。

大正四年に一度発掘され、刀身と鏡一面が出土したといいます。また、円筒埴輪の破片も採集されているそうです。

主体部は石室等を持たない、粘土槨のような施設だったと推測されています。

五世紀後半に築造されたものと見られています。

『和名抄』によると、遠江国引佐郡には、渭伊郷、伊福郷、京田郷、刑部郷の四郷があったことが知られます。京田郷は現在も浜松市北区都田(みやこだ)町の地名が残りますが、「みやけた=屯倉田」が転訛したものとする説が有力です。『延喜式』神名帳には、「三宅神社」も見えます。
これにより、都田川に沿って、浜名湖にそそぐ河口近くに伊福部が、その東の平野部に刑部が、さらに上流の都田盆地には屯倉が置かれたことがわかります。
渭伊郷は刑部郷の北に位置し、都田川の支流の神宮寺川・井伊谷川が流れる井伊谷をその遺称地とします。ここには四世紀から五世紀前半にかけて、北岡大塚古墳や馬場平古墳などの有力な古墳が営まれ、井水祭祀を行って周辺に勢力を張る在地豪族の存在が推定されています。
井伊谷の古墳は五世紀後半を境に衰退し、この後、部民や屯倉の設置といったヤマト王権勢力の扶植が行われていくのです。
陣座ヶ谷古墳の登場は、浜名湖周辺地域のこのような勢力変動における画期を成します。被葬者には、親ヤマト王権的な性格を持って「井の国」の王を打倒した派遣将軍的な人物が想定できるかもしれません。
王権の藩屏的な要素を持つ首長の登場は、当地に国造が置かれた可能性を示唆するようです。陣座ヶ谷古墳の北東約二kmのところにある金指の地名は、欽明天皇の王宮(磯城島金刺宮)に舎人を出していたことを示すものでしょうか。
『旧事本紀』国造本紀は、成務朝に物部氏の祖・伊香色雄命の子である印岐美命を遠淡海国造に任じたとする伝承を記します。「遠江=浜名湖」説に拠るとき、当地の支配への物部氏の介入が考えられるでしょう。

墳丘の上からは、都田川の流れる沖積平野が一望できます。 古代の刑部郷もこのあたり。
上の写真中央に見える、稲荷山の向こう側が井伊谷です。

前方部の近くには円墳があります。詳細は不明ですが、後続するものでしょうか。

これ以降、六世紀、七世紀と、都田川流域には各地に群集墳が営まれていくことになります。

古墳のある丘陵に登るには、車幅ギリギリの細い道を通ります。一歩間違えば崖下に転落しそうです。
車はマックス○゛リュの駐車場にでも置いて、少し歩いたほうがいいかもしれません…

 

恩塚山A七号墳 [地図]

静岡県浜松市北区都田町の恩塚山A七号墳です。細江町と都田町の境界になる丘陵上に位置します。

石室の形が特徴的です。
玄室が横長で、羨道と合わせると T字型をしています。静岡県内には他に類例を見ないそうです。

羨道は、天井石が一部失われているせいで、胴張りした様子がよく見えます。

墳丘の規模は確認されていませんが、直径十六m前後の円墳と推定されています。

東側(右側)の側壁です。大型の石が使われています。
側壁なんですが、この画像だけだと奥壁を見ているようですね…

西側(左側)の側壁です。

7世紀代に築かれたものとされています。
恩塚山古墳群にはA支群、B支群合わせてかなりの数の古墳があったようですが、見学できるのはここだけらしいです。B一号墳は、古墳時代中期末〜後期前半ころのものと考えられています。

この古墳のある丘陵へは、絶対に南からアプローチしてはなりません。必ず北から近づいて、左写真の分岐を右に入ってください。
南から来ると、車幅ギリギリの細い道を通ることになり、一歩間違えば崖下に(ry

 

見徳3号墳 [地図]

浜松市北区新都田の見徳古墳です。
都田総合公園の北のほうの駐車場の近くに墓地があり、その中に保存されています。

丘の上にあり、とても眺望が良いです。

直径約十二m、高さ約二mの円墳です。横穴式石室が南に向けて開口しています。
周溝もめぐっていたそうです。

七世紀代の築造で、浜松市の史跡に指定されています。

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