天璽瑞宝トップ > 所縁の史跡 > 石上宅嗣 -顕彰碑と芸亭跡-
■ 石上朝臣宅嗣卿顕彰碑 [地図] |
宅嗣は、左大臣石上麻呂の孫で中納言石上乙麻呂の子。正三位大納言まで昇り、死後に正二位を贈られた、物部氏族の総帥です。 また、淡海三船と双璧をなし奈良時代後期を代表した文人でもあるとの評価があります。 |
芸草は良いにおいのする虫よけの草で、これにちなんで図書のことも「芸」というそうです。「芸亭」は、つまり「図書館」の意味の雅語です。 『日本後紀』弘仁六年六月二十七日条に、安殿親王(平城天皇)の東宮学士などを務めた、賀陽豊年が学んだことが見えます。 |
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「石上朝臣宅嗣卿顕彰碑 石上朝臣宅嗣卿が奈良朝の晩季宝亀年間に方り平城京の一隅に創立せし芸亭院は我国公開図書館の權輿とせらる 皇紀二千五百九十年八月 |
「その旧宅を捨てて阿閦寺とす。寺の内の一隅に、特に外典の院を置き、名けて芸亭と曰ふ。 『続日本紀』の成立した延暦十六(797)年の時点、平城京が都ではなくなってもしばらくは存続していたことがわかります。 碑の裏面には、「昭和五年十月十八日 石上宅嗣卿顕彰会建之」とあります。 |
■ 「芸亭伝承地」 [地図] |
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昭和四十六年に一条高校の校内整地を行った際、寺院の礎石と見られるもの数個が発見されました。 以下のような説明板があります。 |
「芸亭 芸亭は今から千二百年余前、奈良朝のころ大納言石上宅嗣卿が邸宅を提供して阿閦寺とし、その一隅に設けたわが国最初の公開図書館である。そこには数多くの儒書等を備え、好学の人々に自由に閲覧させたと続日本紀に書かれている。 昭和四十六年十月二十八日 奈良県図書館協会」 |
![]() 「法華寺の鳥居の巽、わづかにへだたりて、田の中に松の一本ありし所ぞ、阿閦寺の跡なり(三語集) 当代は鳥居もなく、松も見えず」 という阿閦寺が見えます。 光明皇后に関する伝説が述べられますが、これを正しくは宅嗣の建立した寺と考える説があります。 |
参考
石上宅嗣卿顕彰会『石上宅嗣卿』