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三諸の神奈備・三輪山のふもとから、奈良盆地の東の山々の裾野を縫って、一本の細い道がつづきます。
日本の歴史に登場する最古の道といわれる、山辺の道です。

 『古事記』において、崇神天皇陵と景行天皇陵について記述されるのが、史上の初出です。
それぞれ、「山辺道勾之崗上」「山辺之道上」に御陵があるとされています。

周辺に古い由緒をもつ神社や寺院、たくさんの古墳や遺跡が散在する、古代の大和を感じられる古道として知られます。
一帯は大和王権発祥の地と見られ、注目されます。

昭和四十三年〜五十年に東海自然歩道の一部として整備され、現在では多くのハイカーが楽しみ歩く道となっています。

  大神神社   桧原神社
  箸墓古墳   日代宮址
  相撲神社   穴師坐兵主神社
  景行陵古墳   水口神社
  崇神陵古墳   大和神社

大神神社 [地図]

奈良県桜井市三輪に鎮座する、大神(おおみわ)神社です。
三輪明神とも通称されています。

『延喜式』神名帳の大和国城上郡に、「大神大物主神社」がみえます。

祭神は、大物主神。
大己貴神と少彦名神が配祀されています。

奈良盆地を取りまく青垣山のうち、南西に位置する三輪山を神体とします。
そのため、本殿を持ちません。

『古事記』上巻によると、ともに国つくりを進めてきた少名毘古那神を失った大国主神の前に、海を照らして依り来た神がありました。
その神は、国つくりの完成のために、「倭の青垣の東の山上」へ自分を祀るよう要求します。
『古事記』は、「こは御諸山の上に坐す神なり」との説明をこれに付しています。

このように、御諸山=三輪山の神は、神代記では正体不明ですが、中巻神武天皇段に至って、初代皇后の伊須気余理比売の父が、「美和の大物主神」であることが明かされています。

『古事記』はその後、崇神朝に疫病が起こり、それは大物主神の意向であるから、神の子孫の意富多々泥古を神主にして祀れば世は太平になるだろうとの神託を受けた、との物語を載せます。

同様の内容が、崇神紀の五年条から八年十二月二十日条にかけて語られます。
ここでは、大田々根子は神の子とされています。三輪君氏の祖です。

三輪山の神の神威の大きなことを強調する史料は古代史上に散見され、王権とのつながりも非常に強かったことがうかがわれます。

『文徳実録』嘉祥三年十月七日条に、大和国の大神大物主神が正三位に叙されたことがみえ、仁寿二年十二月十四日には従二位から従一位へ神階を進めたことがみえます。
『三代実録』によると、貞観元年二月一日に、正一位へ昇っています。

崇神紀には、大物主神は孝霊天皇の皇女の倭迹迹日百襲媛命を妻として、美しい蛇の姿で現れたこともみえます。

境内に巳の神杉があります。
神の使いである巳が棲むともいいます。

現在の拝殿は、寛文四(1664)年に造営されたもので、国の重要文化財に指定されています。

拝殿と三輪山へつながる空間の境界には、三ツ鳥居と呼ばれる、明神型鳥居を三つ組み合わせた独特の鳥居があるといいます。
平安時代にはじめて設けられたといわれます。
鳥居には扉があるそうですが、元旦の祭りのとき以外は閉じられているそうです。

三輪山を意識した祭祀については、考古学の成果によって見るとき、四世紀中頃に始まるとする説が有力視されると思います。

ただし、巻向川の北のオオヤマト古墳群や、初瀬川の南の桜井茶臼山古墳などが造られていた時期において、当地の古墳造営は確認できず、以降も茅原大塚古墳を例外とすれば、非常に造墓が低調な地域といえます。
比較的早くから、聖域と見られていたのかもしれません。

拝殿の背後に広がる禁足地などは、詳細な学術調査が行われておらず、さらに古い時代へ創祀がさかのぼる可能性がありそうです。

六世紀後半以降に、馬塚古墳・弁天社古墳・狐塚古墳などが築かれているのは、伊勢神宮の神の比重が王権内で大きくなったことと、当社の三輪氏の氏神としての要素が強まったことによると思われます。

大神神社の摂社は十二社、末社は三十一社を数えるといいます。
大変多く、伊勢神宮に次ぐ数ではないでしょうか。

写真は磐座神社です。本社の北側にあります。
社殿を持たず、岩を神体として祀られています。

本社から北へ二五〇メートルほどの場所に鎮座する、狭井神社です。
四月十八日の鎮花祭が有名で、華鎮社、しずめの宮とも呼ばれます。
三輪山への登拝は、この神社で受付が行われています。

『延喜式』神名帳に「狭井坐大神荒魂神社」がみえます。
祭神は大物主神の荒魂。

狭井は、『姓氏録』等にみえる物部氏族狭井連(佐為連)氏の本拠地でもあります。

境内の柿山展望台からは、大和三山や金剛山がよく望めます。

大直祢子神社です。
大物主神の子である大直祢子命を祭神とし、若宮社の別名を持ちます。

社殿は、明治の神仏分離令以前にあった神宮寺・大御輪寺の本堂だったものです。

大神神社の境外摂社、神坐日向神社です。
大神神社の社殿から、二〇〇メートルほど南にあります。

『延喜式』神名帳に「神坐日向神社」がみえ、三輪山山頂の高宮神社とともに、論社になっています。

祭神は、櫛御方命、飯肩巣見命、武甕槌命。

『三代実録』貞観元年正月二十七日条に、大和国の従五位下坐日向神が、従五位上へ叙されたことがみえます。

 

桧原神社 [地図]

大神神社の摂社、桧原神社です。
本社から北へ一.二キロメートルほどに位置します。

祭神は天照大御神、伊弉諾尊、伊弉冊尊。

江戸時代には拝殿もあったそうですが、現在は垣の外から三ツ鳥居に向かって礼拝する形になっています。

崇神紀六年条にある「笠縫邑」の伝承比定地のひとつです。

天照大神と倭大国魂神は、崇神朝以前は皇居の内に祀られていたが、神とともに住むには不安があり、他所で祭祀を行うことになった、といいます。

天照大神は皇女の豊鍬入姫命に託し、大和の笠縫邑で祀られることになりました。磯堅城の神籬が設けられたとされます。

垂仁紀の二十五年三月十日条に、天照大神を豊鍬入姫命からはなして、倭姫命に託し、宇陀、近江、美濃を経て、伊勢へ鎮座することになったことがみえます。

伊勢神宮の創祀については、雄略朝説や天武朝説が有力のようですが、その前身が大和国にあったと見ることは、王権の本拠地が大和であることからして自然なように思えます。

 

箸墓古墳 [地図]

桜井市箸中にある箸墓古墳です。
孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫命の墓「大市墓」として管理されています。

墳丘全長は280メートル、後円部径は150メートルあります。
前期古墳では景行陵古墳に次ぐ規模です。

大市の箸墓の築造について、日本書紀は、
「昼は人が造り、夜は神が造った。大坂山の石を運んで造った。山から墓に至るまで、人民が連なって手渡しにして運んだ」
という伝承を記しています。

石室材がカンラン石輝石玄武岩で、大阪府柏原市国分の芝山産と見られるため、伝承と一致していると見る説もあります。

壬申の乱のときには、三輪君高市麻呂と置始連菟が、この近くで近江朝軍と戦ったといいます。

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